(6)承久の変


 1219年、3代将軍源実朝殺される。


 慈円ら九条家は、頼朝と交流があり、親密であった。慈円が描く政体は公武合体の上に、天皇を摂関藤原家が補佐する、というものであった。慈円らは、「武士の力」という事実をよく承知していた。


 後鳥羽院を始め多くの貴族達は、「なんとなく反武家の感覚」を持っていた。そんな感覚で10年、20年と経過すると、保元・平治の乱、源平の合戦は遠い昔話になってしまい、「武士の力」を忘却してしまった。実朝殺害の知らせが届くや、「鎌倉の源氏将軍は終わった」と喜び、反武家の感覚が一挙に盛り上がった。感覚だけでなく、倒幕計画まで出てきた。その中心人物が、後鳥羽院である。


 鎌倉幕府は、後鳥羽院の皇子を4代将軍に迎えようと、有力御家人が連署した上奉文を提出したが、後鳥羽院は拒否した。後鳥羽院は全面拒否ではまずいと思ったらしく、「摂関家の子ならば鎌倉へ」と妥協案を示した。そこで、2歳の三寅(みとら)が鎌倉へ下校した。三寅は、九条家の人物で、兼実→良経→道家→三寅(頼経)という系図であるが、鎌倉源氏将軍と遠縁ながら血縁関係もある。


 慈円は、何事もなく20年が経過して、三寅(頼経)の4代将軍に期待した。また、現在の順徳天皇(84代)ではなく、その皇子懐成(かねなり)に期待した。懐成の母は九条良経の娘である。


 そして、なんとか公武の武力衝突を回避するため、『愚管抄』を急ぎ書いた。「愚管」とは私見の意味である。


 第1代から現在の順徳天皇(第84代)までの歴史が書かれてある。7巻あり、仮名で書かれてある。全部読む時間がない人は第7巻だけでもOKと思います。


 歴史は変化している。変化は「道理」があるからである。武家の勃興も「道理」があってのこと、と反武家思想を批判している。「道理」とは「もっともな理由」ということだろう。そして、「道理」は時代とともに変化する。昔は武家を無視していてもよかったが、時代が変わり「道理」が変わったのだから、武家を尊重しなければならない。尊重どころか、天皇は将軍・武家の心と違ってはならない、とまで言っている。


 慈円が『愚管抄』を書いたところで、後鳥羽院の考えが変わるわけでもなかった。後鳥羽院は挙兵したものの、関東の大軍によって京側は惨敗。後鳥羽院は隠岐へ流された。


 慈円は乱を止められなかったことを反省し祈願した。その中身は、第4代将軍頼経(将軍在位1226~1244)を中心とした公武合体の実現であった。それと、後鳥羽院の隠岐からの帰還であった。しかし、実現しなかった。


 慈円は、その頃から病に伏し、1225年、71歳で逝去した。


 事実を事実として認識することは、非常に難しいことである。「事実」と「過去の記憶、願望、期待、幻想」を錯覚することの、なんと多いことか。以後、400年間、「殺し上手」=「正義」の時代となってしまった。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。最新刊『やっとわかった!「年金+給与」の賢いもらい方』(中央経済社)が好評発売中。