(1)平城天皇を手玉にとった


「鳴くよ(794年)ウグイス平安京」と語呂合わせで覚えた平安京への遷都。平安時代の初期、810年に「藤原薬子の乱」「藤原薬子の変」という政変がありました。「乱」と「変」の違いは、明確な定義があるわけでなく、大雑把なイメージからすると、武装集団のチャンバラがあれば「乱」、なければ「変」ということでしょう。

でも、本能寺の変はチャンバラがあったが「変」なので、なぜかしら。本能寺の変は、当時としては小規模な戦闘なのでしょう。藤原薬子の「乱(変)」は、チャンバラがあったのか、よくわかりません。あったとしても極めて小規模であったのでしょう。


「薬子」の「子」の字ですが、君子、孔子、太子などで類推されるように「子」の字は、「おとこ」という意味もあり、「乱(変)」を主導した人物だから、薬子を男と思い込んでいた人がいました。藤原薬子は、ふじわらのくすこ、女性です。いわゆる美魔女・妖婦という感じでしょうね。


「藤原薬子の乱」を、ものすごく単純化すると、藤原薬子が平城天皇(774~824、第51代、在位806~809)を色仕掛けで手玉にとった。そして、権力の実権を3年間握った。しかし、「薬子の乱」に失敗して、毒を飲んで自殺しました。


 ドラマ的には、クレオパトラ的で、実に面白いのですが、なんとなく「天皇家を愚弄することになるのでは」と躊躇して、大ヒット作品が生まれません。


 最近は、あの政変劇は、藤原薬子の役割は小さい、主役は平城太上天皇だから、「平城太上天皇の変」あるいは「弘仁元年の変」と呼ぼう、という動きが強まっているようです。なんか、味気ないなぁ~、と思います。


 藤原薬子の役割が、「大きいか小さいか」は、見方によります。少なくとも、藤原薬子は、あの政変劇の中心に位置していました。


(2)藤原種継暗殺事件


 藤原薬子(?~810)は、藤原式家の藤原種継(737~785)の娘です。


 日本史では奈良時代以後、藤原不比等の藤原氏がずっと政治の表舞台に登場します。不比等の4人の男子は、それぞれ南家、北家、式家、京家を興した。当時は、藤原式家が最も権力中枢、すなわち桓武天皇(737~806、第50代、在位781~806)に近かった。式家のなかでも、藤原種継が式家の代表格で、桓武天皇が信頼する側近であった。


 藤原種継の妻・愛人は多数いて、子供も男子が7人以上、女子が2人以上。長男が、藤原仲成(764~810)、そして、その妹が薬子です。


 薬子の母は、ハッキリしていません。父の種継の母方に渡来人系の秦朝元がいて、彼は医学薬学に詳しい人物でありました。それにちなんで、薬子と呼ばれたと推理されています。ということは、薬子は医学薬学の知識が、相当あったということです。


 薬子が生まれた年も、ハッキリしていません。しかし、薬子の「愛と権力」の相手である平城天皇(774~824)より、年上であることは間違いありません。いろいろな推理によって、765年誕生が有力視されています。平城天皇より、9歳年上女性である。男女関係に年の差なんか関係なしなのですが、気にはなります。


 藤原薬子の生涯を眺めると、権力欲・上昇意識が極めて強いと察知されます。したがって、桓武天皇ハーレムの一員になりたい欲求があったに違いありません。宮中と下界では、月とスッポンの歴然たる差があります。差どころか別世界です。父・種継の力からすれば、ハーレムの一員になれたと思いますが、なぜか、なれなかった。理由は、根拠なしの自由な推測しかできません。私の推測は後述しますが、各自、楽しく推測してください。


 そして、薬子は藤原縄主(ただぬし、760~817)の妻となった。縄主は藤原式家のメンバーですが、いわば中流貴族です。2人の間に、3男2女が生まれました。


 さて、父・種継は、桓武天皇の政務の中心的存在となっていきます。784年には、長岡京遷都を建議し、長岡京遷都の最高責任者となります。長岡京遷都は突貫工事で進み、同年11月11日に長岡京へ遷都がなされました。桓武天皇は平城京(奈良)を酷く嫌っていたのです。むろん、中心建物が建築されただけで、他の遷都工事は継続中です。そして、785年9月23日、藤原種継が長岡で造営監督中に矢を射られて殺されました。


 この種継暗殺事件の実行犯は即捕縛され、大伴竹良の命令と白状した。『万葉集』の編者で有名な大伴家持(718~785)は大伴氏のドンです。暗殺事件当日には死亡していましたが、官位剥奪の処罰を受けました。


 大伴家持は歌人として有名ですが、実は武門の家で、奈良時代の多くの乱に関係しており、また、蝦夷遠征の責任者を務めています。大伴氏は武力を有する有力氏族でした。この事件で斬首になった者は8人、流罪は7人です。多くの大伴氏が斬首され、大伴氏の力は消滅しました。


 とりわけ、重大処罰は、早良親王(さわらしんのう、750~785)の流罪です。無実を叫んで断食し10日後に憤死した(785年11月8日)。そして、怨霊となって猛威を振るったのです。朝廷は祟りを鎮めるため、頻繁に鎮魂の儀式をし、800年には崇道(すどう)天皇の尊号を贈りましたが、効き目はありませんでした。東大寺では、今も、怨念を鎮めるための供養をしています。なお、崇道天皇は歴代天皇にはカウントされません。


 早良親王は、桓武天皇の弟であり、皇太子でした。何もせず、じっと待っていれば天皇になれる立場でした。


 権力を巡る構図を考えると、早良親王の周りには、大伴氏を含む反桓武・反藤原が集まっていました。


 桓武天皇・早良親王の父・光仁天皇(709~782、第49代、在位770~781)は、桓武を嫌い、早良親王を寵愛していましたが、藤原氏の圧力によって桓武天皇が実現してしまったので、必然的に、反桓武・反藤原のグループが存在することになりました。


 光仁天皇が桓武を嫌う理由は、『水鏡』のスケベ話にあります。桓武は若い頃(天皇になる可能性ゼロの頃)、光仁天皇の妻である井上皇后の愛人であった。天皇と皇后が双六をして、勝ったほうに若い愛人をプレゼントするということで、そうなりました。面白過ぎるスケベ話であります。


『水鏡』は鎌倉時代初期に書かれた歴史書です。スケベ話よりも、本筋は桓武の血統にありました。①皇位は天武系と事実上決まっていた。桓武は天智系です。②母方が渡来系、ということで、桓武の天皇の芽はゼロでした。しかし、藤原氏、とりわけ藤原式家が、桓武の即位を強行しました。それゆえ、反桓武・反藤原は根深いものがありました。


 さらに言えば、実際の政務は、早良親王が取り仕切っていて、桓武天皇は遊興に耽っていて、いわば「名ばかり天皇」という実態が続いていました。総合的にみると、桓武天皇の基盤はかなり脆弱であったのです。


 どうしても、早良親王が邪魔と思う人物の筆頭は、桓武天皇です。①自分の天皇の地位を強固にするためには、早良親王を排除したい。②親の煩悩。弟ではなく、わが子・安殿親王(あてしんのう、774~824)に直接、皇位継承させたい。安殿親王とは、後の平城天皇です。③早良親王は東大寺と関係が深すぎる。いろいろ複雑な要因がありますが、状況的に桓武天皇は早良親王を排除したかった。真偽は別にして、桓武天皇の命令で、食べ物を与えられなかったため餓死したという話も残っているくらいです。


 桓武天皇の基盤は、即位直後は貧弱でしたが、時間とともに強化され、藤原種継暗殺事件で、反桓武派を一掃し、桓武独裁が確立しました。


 厳然たる事実は、785年10月、早良親王の廃皇太子。同年11月、安殿親王(11歳)が皇太子となりました。


(3)母子相姦


 早良親王の怨霊は猛威を振るった。


 ごちゃごちゃした話になりますが、井上皇后(717~775)と池戸太子の怨霊も、同時に猛威を振るっていた。井上皇后母子は藤原式家の陰謀で、無実の罪で殺され、怨霊となって10年以上祟っている。式家には、ダブルで怨霊が憑りついたのである。井上内親王(皇后)に関しては、『昔人の物語』(57)をご参考にしてください。


 天変地異は申すに及ばず、桓武天皇の夫人・藤原旅子(759~788)の死、皇后・藤原乙牟漏(おとむろ、760~790)の死は怨霊が原因とされた。藤原旅子も藤原乙牟漏も式家の女性で、旅子は淳和天皇(786~840、第53代、在位823~833)の母。乙牟漏は、平城天皇(第51代)、嵯峨天皇(第52代)の母である。ともに、約30歳という若さで亡くなった。さらには、794年には、安殿皇太子妃・藤原帯子(たらしこ、?~794)が亡くなった。帯子は旅子の妹です。



 早良親王の怨霊は、桓武天皇・安殿皇太子を襲っていた。怨霊の最大ターゲットは安殿皇太子でありました。


「祟りじゃ! 早良親王の祟りじゃ!」


 毎夜、安殿皇太子はうなされるのでありました。現代医学からすれば、躁うつ気質、幻覚も見るので統合失調症、神経が細い人物で、極度のノイローゼに頻繁に陥る、ということでしょう。


 皇太子妃・藤原帯子が亡くなった直後ではないにしろ、通常、元気をつけるため、「遊びましょう、いい娘がいますよ」と、アドバイスがなされるものだ。


 安殿皇太子には、すでに複数の夫人がいたが、どうも相性がよくない。そりゃそうだろう、安殿皇太子は精神疾患で、突然、喚き騒いだりするのだから、女性にもてない。


「新しい娘ですよ。若くて美人で」


 それが実行に移された。792年、皇太子に14~15歳の新しい娘が侍ることになった。この娘の母親が藤原薬子である。薬子は、娘の付き添いということで、一緒に東宮(皇太子の御所)へ入った。そしたら、安殿皇太子は娘ともナニしたが、薬子ともデキちゃった。薬子が31~32歳、安殿皇太子が22~23歳である。


 神経が細く、極度のノイローゼ体質、性欲淡泊な若い男は、ベテラン年増女性のテクニックに溺れてしまったのである。むろん、肉体的テクニックだけではなく、心理カウンセラーの才能(安殿皇太子の話をよく聞く)もありました。薬子とナニしている時、会話をしている時、その時だけは、怨霊を忘れることができたのであります。


 ついでに言えば、薬子の死後に発覚するのですが、薬子は東宮大夫の藤原葛野麻呂(かどのまろ、755~818)ともデキちゃっていたの。口止め料的な意味合いか、単なる淫乱か、両方かな……。2人の関係は、ずっと続きます。ノイローゼのへなちょこ男だけじゃ物足りない、たまには、しっかりした男とも……という感じかな。


 枝葉末節ながら、藤原葛野麻呂は藤原北家です。しかし、安殿皇太子の母子相姦は、葛野麻呂ひとりの口を封じたところで、結局、桓武天皇にバレてしまう。桓武天皇は激怒して、薬子を宮中から追放した。


 疑問に思うのは、桓武天皇はなぜ、母子相姦に激怒したのか。フリーセックスの当時の倫理基準からすれば、好ましいことではないが、まぁいいじゃないの、というレベルと思う。桓武天皇自身も同類の経験をしているし、その後の天皇も母子相姦をしている。なぜ、桓武天皇は激怒したのだろうか。


 貴族の世界は狭い世界である。東宮へ入る前から、薬子の権力欲・上昇意識が並でない、何かしら異常な女性という噂が強烈にあったのだろう。単なる噂だけでなく、それを裏付ける具体的事実もあったのだろう。私は「薬子」の名から推理するのですが、彼女は、知られざる「薬」を活用していたのではなかろうか……。


 前述したように、薬子の父・種継の母方には渡来人系の秦朝元がいて、医学薬学の専門家です。秘伝の「薬」を薬子は学んでいたのでしょう。秘伝であるから、異常能力の女性と噂になっていた――ということではなかろうか。現代なら、「あすこの娘は、こっそりと大麻を使っているらしい。証拠はないが」という感じではなかろうか。むろん、推理力・想像力によって、どんな筋書きでも通用します。あれやこれやの策謀の結果、桓武天皇は激怒して薬子を東宮から追放したことは事実です。


(4)聴容せられざることなし


 薬子が東宮を追放されて8~9年が経過した。おそらく、安殿皇太子は、時々、薬子のもとへ通っていたのではなかろうか。当時は、男が惚れた女のもとへ通うのは当然のことです。薬子の肉体テクニック、心理カウンセラー(安殿皇太子の話をよく聞く)、麻薬の快感、この3拍子からは抜けられない。もっとも、桓武天皇の意思を忖度して、内密の通いであったと思います。


 桓武天皇(737~806、第50代、在位781~806)が崩御した。安殿皇太子が即位して平城天皇(774~824、第51代、在位806~809)となった。


 すぐさま、薬子は宮中に迎えられ、尚侍(しょうじ)となった。この頃の尚侍は、内侍司の長官であり、天皇の命令を下に伝える、下からの提出文章を取り次ぐという役目で、やりようによっては絶大な権限を振るえた。なお、桓武天皇の尚侍は、百済王明信でした。『昔人の物語』(69)をご参照ください。


 薬子は夫・藤原縄主とは、すでに離婚していた。縄主は九州の大宰府に転任された。薬子にとっても、平城天皇にとっても、縄主が近くにいては、何かと気になってしまうのだろう。ただし、これは左遷人事ではなく、むしろ栄転人事である。長い間、不倫を容認していただき感謝いたします、というわけだ。あの頃は、美人妻を天皇にプレゼントしてスピード出世する者もいました。それと似ています。


 40歳を過ぎた美魔女・妖女は、平城天皇を自家薬籠中の物とした。肉体的テクニックとカウンセリング(話をよく聞く)が抜群であったこと以外に、私は、前述のように「秘伝薬」の威力と思いますが、平城天皇は8~9年前の東宮時代の甘美・快楽の復活でありました。安殿皇太子-平城天皇の地位ならば、美女というだけなら何人でも集められます。そうではない、凄い何かを薬子は持っていたということです。


 薬子は平城天皇のもとで、絶大なる力を有した。『日本後記』には、次のようにある。


「巧みに愛媚(あいび)をもとめ、恩寵隆渥、言うところ聴容せられざることなし、百司の衆務、吐納自由、威福の盛、四方を薫灼す」


 薬子の官職は、尚侍である。大きな権限があるとはいえ、尚侍である。それが、事実上、皇后同様になった。周辺は、「いずれ正式な皇后になるのでは」と噂した。その噂を否定するため、皇太子時代に亡くなった皇太子妃・帯子に皇后の位を贈った。皇后の位はひとりだけだから、薬子が皇后になることは不可能となった。


 しかし、周辺の人々は、そんなことで「薬子は野心のない人」と信じない。「野心を隠す姑息な手段」と受け取った。『日本後記』にあるように、「(薬子が)言うところ聴容せられざることなし」が現実で、薬子は、全権を掌握したのであります。


 薬子に行政的政策があったとは考えられない。単に権力欲である。「藤原式家」の隆盛、私利私欲、我がままを通すだけだったようだ。薬子は、すでに藤原式家の代表者となっていた。


 薬子の兄、藤原仲成(764~810)も行政的政策があったわけではなく、薬子の兄というだけで権勢を振るった。宮廷での順列・秩序を無視、多くの皇族・貴族を侮辱、時にはレイプまでした。無知・無教養・無頼の者が偶然に権力を握った、という感じです。


 従って、薬子と仲成の2人は、貴族仲間からは嫌われた。でも、平城天皇の薬子への寵愛は不変・強固であった。


 平城天皇の政務は、桓武天皇の政策で引き継ぐべきは引き継ぎ、改革を要するものは改革し、おおむね及第点のようだ。観察使の制度を新設して、地方の実情をしっかりと把握しようとした。しかし、すべての制度に言えることだが、机上の設計図は完璧でも、実行に移すと1~2年で不都合な点が出てくるものだ。それを、粘り強く修正していくことが重要です。机上の設計図なら、少し頭を働かせれば、すぐできる。それを修正しながら、よい方向に運用していくには、「粘り強い努力」が必要なのだが、平城天皇は強度のノイローゼ体質のため、それは無理だった。


 余談ですが、昨今の政治風景は、「少し頭を使った設計図」(つまり、人気が出そうな政策)だけが脚光を浴び、「粘り強い努力」は無視される。なにかしら、平城天皇に似ているなぁ~と思っています。


 とにかく、平城天皇は、躁うつ気質、ノイローゼ体質ながら、一生懸命に政務を行った。ただし、最初の1年だけ。


 通常の政務以外で、超重大事件は807年の「伊予親王の変」です。


 桓武天皇の長男が安殿皇太子(後に第52代・平城天皇)、2男が神野親王(後に第52代・嵯峨天皇)、3男が伊予親王です。ただし、伊予親王が第1皇子とする異説もある。


 桓武天皇存命中、安殿皇太子がノイローゼのへなへな状態、錯乱状態になる度に、皇太子を伊予親王に変えたほうがよいとする空気が流れた。伊予親王は優秀であったのだ。


 平城天皇は、次期天皇には、自分の子を望んでいたが、桓武天皇の意向で、神野親王が皇太子になった。貴族世界は、次期天皇を巡る陰謀だらけである。藤原式家以外の貴族は、このままでは薬子が代表する式家の時代が継続されてしまう、という危機感があった。ともかくも、異常なる「平城天皇・薬子体制」をなんとかしたいという気持ちが強かった。そんななか、伊予親王の謀反話が伝聞として持ち上がった。


 伊予親王は平城天皇に「藤原宗成から謀反を唆された」と報告した。


 朝廷が藤原宗成を尋問したら、「伊予親王が謀反を言い出した」と自白した。


 平城天皇らは、藤原宗成の言を信じて、伊予親王とその母を捕らえた。2人を餓死させる方針に決まったが、2人は服毒自殺した。


 なお、藤原宗成(785~858)は、藤原北家です。流罪になりました。


 この事件では、藤原南家の人物が多く関係したとされ、南家は衰退した。薬子・仲成の式家にとっては有利な結末となった。結果論からすると、薬子は平城天皇に「伊予親王有罪」(→南家衰退)を吹き込んだと思われる。この事件の真相は不明ですが、後の823年に伊予親王母子の無罪が認められた。


 平城天皇の治世は、一応、順調に進展した。


 しかし、早良親王の怨霊は相変わらず、平城天皇を苦しめていた。そのうえ、伊予親王の怨霊も加わるに違いない。


 さらに、空海の帰国という事態が恐怖をもたらした。


 突然、空海が登場して驚かれるかも知れませんが、空海を無視してはならないと、私は思います。


 実は、伊予親王と空海は縁が深いのです。空海の母方の叔父に阿刀大足(あと・の・おおたり)がいて、彼は儒学の学者であった。空海に儒学を教えたが、伊予親王の儒学の師でもあった。空海が遣唐使の一行に同乗できたのは、叔父の阿刀大足ルートで伊予親王の口利きによるものだった。空海は伊予親王にとても感謝していた。


 806年10月、空海が帰国した。ただし、空海は20年間の留学であったが、2年間に短縮されて帰国したので、809年まで入京禁止、大宰府に留められていた。


 807年10~11月、伊予親王の変。阿刀大足は「伊予親王の変」に連座して処罰されるかも知れないと思い、出家して、隠れ旅をして大宰府へ行き、空海に会った。そして、「伊予親王の変」を伝えた。空海は何を思ったか……。


 空海の思いは、さておいて……。


 平城天皇は、伊予親王と空海の関係を知って、恐怖した。空海帰国の2年前、最澄が帰国し、新しい超能力密教が都で大ブームを起こした。空海が持ち帰る密教は、最澄の密教よりも10倍も20倍も超能力威力があると伝えられていた。そんな超能力密教の空海が都へ来たら、どうなるか。世の中、ガラリと一新してしまうのではないか。


 平城天皇は、自分たちが犯した罪悪、とりわけ「伊予親王の変」について、「無実と知りながら兄弟殺しをした」ことがバレてしまう。伊予親王の怨霊が空海密教で10倍20倍に強化されて、自分に憑りつくのではないか。平城天皇は、ものすごく恐怖したのである。


 思い起こせば、自分が皇太子になれたのは、藤原種継暗殺事件にからめて、無実の早良親王を餓死殺人させたことである。伊予親王の変では、薬子の式家隆盛・南家衰退のため無実の伊奈親王母子を殺害させてしまった。早良親王の怨霊も空海密教で強化されるに違いない。伊予親王の怨霊も強化されて強烈に襲ってくること間違いなし。809年には、空海が京へ来る。


 平城天皇は完璧にノイローゼに陥った。


(5)薬子の乱


 806年4月に平城天皇は即位してから、3年が経過した。


 平城天皇は、ふと考えた。


 皇太子の頃は、早良親王の怨霊に苦しんだ。天皇になったら、怨霊に加えて、政務も大変な重圧だ。伊予親王の怨霊も襲ってくる。空海も直に京へやってくる……、心配だ、大変だ、心配だ、大変だ。


 ならば、譲位して天皇の政務という重圧だけでも逃れよう。薬子と2人でいると怨霊に苦しまない。政務を止めて、薬子との時間を多くしよう。


 それに、天皇を譲位して「太上天皇」(上皇)になっても、天皇と太上天皇とは一心同体の関係なので、太上天皇の意思に天皇は従い、実務・責任は天皇にあり、ということになる。そのほうが気が楽だ。


 平城天皇の皇太子は、桓武天皇の意思により、平城天皇の弟・神野親王がなっていた。平城天皇は、誰に相談することもなく、さっさと弟・神野親王に譲位してしまった。嵯峨天皇)が誕生した。


 嵯峨天皇の予備知識をひとつ。


 嵯峨天皇、空海(弘法大師)、橘逸勢の3人は、書の達人で「三筆」といいます。3人を中心に、いわば文化サロンが形成されていきます。嵯峨天皇の頭脳は、平城天皇と違って、とても優秀なのです。


 皇太子には、平城天皇の3男・高岳親王がなった。嵯峨天皇の配慮である。その後の高岳親王の運命は、薬子の変で皇太子を廃された。後に空海の10大弟子となり、入唐。さらに天竺を目指したが途中で虎に襲われて死去した。


 平城天皇の長男は阿保親王(792~842)であるが、母親の身分が低いため皇太子にはなれなかった。阿保親王の子が王朝プレイボーイ・ナンバーワンの在原業平です。


 平城天皇の2男は、幼年で死去した。


 薬子は、平城天皇(太上天皇)を操るだけで、他の政治的手腕を持っていない。平城天皇の突然の退位に、若干の異議は唱えたが、基本的には、ただ、おろおろするだけだった。


 平城太上天皇は、平安京(京都)から平城京(奈良)へ移り住んだ。


「平城太上天皇―平城京(奈良)」と「嵯峨天皇―平安京(京都)」の「二所朝廷」の形が生まれた。


 いかに太上天皇と天皇が一心同体といえども、離れた地にあれば意思疎通が上手くいかないものだ。


 嵯峨天皇は、最初は太上天皇の意を丁寧に尊重していた。最初の溝は、平城天皇がつくった観察使の制度変更であった。大した内容ではないと思うのだが、平城太上天皇は自分が苦労して創った観察使制度を変更するとは、何事だ、と怒りを露わにした。薬子は、それを煽った。


 薬子は、思った。


 太上天皇ひとりならば思いのまま操れる。嵯峨天皇は必ずしも、太上天皇の意のまま動くわけではない。時間の経過とともに、太上天皇と天皇の溝は深くなるに違いない。ならば、平城太上天皇が天皇に復活してもらおう、と薬子は考えた。ただ、薬子にとって、それは可能性のひとつであって、天皇が太上天皇に従順になることを期待したり、太上天皇が政務に無関心になり、奈良でのんびり過ごすことを期待したり、頭の中はグルグル回る状態であったろう。


 平城太上天皇は、単純な男である。極度のノイローゼに陥る体質というのは、複雑思考はできない。これと決めたら、自分に有利な情報・意見しか耳に入らず、どんどん突き進んでしまう。要するに、太上天皇の思考形態は、自分が決めたことは突き進むだけである。


 あれこれの出来事があり、平城太上天皇は、平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出した(810年9月6日)。嵯峨天皇はビックリしたが、一応は従う振りをした。その裏では、戦闘態勢を準備し、薬子・仲成の官位剥奪、平安京にいる藤原仲成を捕らえ、射殺した。


 それを知った平城太上天皇と薬子は東国の兵を集めるため輿に乗って東へ向かった。平城京に集う群臣は皆反対したが、平城太上天皇の頭の中は、突き進むしかなかった。悩んだ末の結論ではなく、それしか頭の中にないから、あっけらかんと朗らかに、重大事を決めたのである。気分は物見遊山である。


 薬子の心理カウンセラーの才能とは、平城天皇の言を、嫌な顔をせず、「よく聞くだけ」である。「そうでございますわ」と聞くだけである。


 軍事素人の2人は出発した。2人の一行(約200人)は平城京を出る。2日目の昼休み、前方に2000~3000人の兵士が待ち構えている、と知らせが来た。太上天皇の一行の大半は逃亡した。勝ち目なしと悟り、平城京に戻ることになった。薬子は毒を飲んで自殺した(8100年9月12日)。平城太上大臣は剃髪して出家した。薬子の乱の処罰は概して穏便で、平城法王は地位にふさわしい待遇を受けました。824年、平城法王没す。


 藤原薬子は間違いなく悪女です。権力欲・出世欲を満たすため、「性的魅力」「心理カウンセラー(話をよく聞く)」「秘密の薬」の3つ武器で、権力中枢に伸し上がった。そして、不幸をばらまいた。


 余談ですが、数点のメモ。

●日本3大怨霊とは、菅原道真、平将門、崇徳天皇をいいます。井上内親王、早良親王の怨霊もすごいですね。現代では、恨みは怨霊ではなく、別の形で現れるようです。

●空海は、薬子の乱に際して、嵯峨天皇側で大祈願法要をしました。

●薬子の乱で、藤原式家は衰退し、代わって、藤原北家の時代に移っていきます。

●藤原仲成の射殺以後、保元の乱まで、平安時代は死罪がなくなります。花鳥風月を愛でるお伽噺のような時代となりました。


…………………………………………………………………

太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。