(1)『住吉大社神代記』の「密事」


「応神天皇」と「それ以前の天皇」とは、断絶している。そのことは、『日本書紀』『古事記』を読んでも、薄々は感じると思います。万世一系を信じ込んでいる人でも、「かろうじて血脈が維持されている」と思うのではないでしょうか。

 

 とりあえず『日本書紀』の関係部分の概略を。


 仲哀天皇(第14代)の第4皇子。母は神功(じんぐう)皇后(気長足姫尊、おきなが・たらしひめ・の・みこと)。


 仲哀天皇は、九州の熊襲を討つため親征するが敗退(仲哀8年)。


 仲哀9年2月5日、仲哀天皇が筑紫で崩御。


 仲哀9年3月、神功皇后は仲哀天皇の意志を継いで、熊襲征伐に成功。


 仲哀9年10月、神功皇后は妊娠したまま朝鮮遠征。新羅降伏。


 仲哀9年12月14日、神功皇后、北九州にて誉田別尊(ほむたわけ・の・みこと、後の応神天皇)を生んだ。


 仲哀10年2月、神功皇后は畿内へ向かう。しかし、仲哀天皇の第1皇子・麛坂(かごさか)皇子、第2皇子・忍熊(おしくま)皇子は、神功皇后が赤子の誉田別尊を擁立してくると知った。そして、迎え撃つ準備をした。第1皇子・麛坂皇子は合戦前に猪に食い殺された。皇后軍と忍熊軍の決戦により、忍熊軍の敗北。第2皇子・忍熊皇子は瀬田川に入水自殺。


 仲哀10年(=神功摂政元年)10月、皇后は皇太后となり、摂政となった。


 神功摂政3年1月、誉田別尊は皇太子となる。磐余若桜宮(いわれ・わかさくらのみや)へ遷都。場所は奈良盆地の桜井市。


 神功摂政69年、神功皇后の崩御(享年100歳)。


 応神元年1月、応神天皇(第15代)即位。


 応神41年2月、応神天皇崩御(享年110歳、『古事記』では130歳)。


 神功皇后が100歳、応神天皇が110歳、この2つの年齢は、「何らかの辻褄合わせの無理をした数字みたい」と誰しも思うでしょう。神武天皇の即位を無理やり紀元前660年にするための数字です。


 それから、「仲哀9年2月5日、仲哀天皇崩御」と「仲哀9年12月14日、神功皇后、誉田別尊(応神天皇)を生んだ」との期間は、10ヵ月と9日です。2月5日が崩御した日なので、さすがに、その日ではセックス最中の腹上死(性交死)となってしまうので、前日の2月4日にセックスしたことにした。そうすると、ピッタシ「十月十日」である。誰しも、「デキ過ぎの辻褄合わせの数字」と思うでしょう。


 となると、応神は仲哀の子種ではないかも知れない。となると、誰の子種かなぁ~、と興味津々。週刊誌的関心を持って『記紀』を読めば、「武内宿祢(=建内宿祢)かも〜」と想像するのではないかしら。でも、今ひとつ確信に至らない。そこに登場したのが、『住吉大社神代記』なる文献である。『住吉大社神代記』は長らく秘中の書であったが、昭和になって公開され、戦後になって、にわかに注目された文献です。特に、次の一文である。


 是夜、天皇忽病発以崩。於是皇后與大神有密事。[俗曰、夫婦之密事通]

(和訳)この夜(仲哀天皇が住吉大神の神託を拒否した日の夜)、仲哀天皇はたちまち病を発し、以って崩御した。是において、皇后と(「與」=「と」)大神の密事有り(俗に言う、夫婦の密事通)。


 皇后は住吉大神と密事(夫婦関係)をなした。では、住吉大神とは誰かなぁ~、と興味はつきない。


 例えば、昔の神社の夜祭は乱交OKであった。だから不妊で悩む場合、夜祭に出かけた。妊娠すれば、誰の子種か不明なので、「神様のお計らい」となり、めでたしめでたしとなる。誰の子種か、隠したい場合も、「神様のお計らい」を利用する。


 ここで、住吉神社の若干の解説をします。


 古代の住吉神社は、現在、3大住吉神社と呼ばれている神社で、大阪市住吉区の住吉大社(前述文献を秘蔵していた神社)、山口県下関市の住吉神社、福岡市博多区の住吉神社である。それらの祭神をみると、神功皇后と武内宿祢の結び付がとても強力であることがわかる。とりわけ、下関の住吉神社の祭神は、第1殿が住吉三神(イザナギが生んだ表筒男命・中筒男命・底筒男命)、第2殿が応神天皇、第3殿が武内宿祢命、第4殿が神功皇后、第5殿が建御名方命(たけみななかた・の・みこと)である。建御名方命は、『古事記』では大国主神の子として登場するが、『日本書紀』にはない。建御名方命は国譲りに抵抗し諏訪へ逃れ、諏訪神社の祭神となる。


 住吉神社の祭神を眺めると、神功皇后とセックスした住吉大神とは、武内宿祢であると推理できる。


 武内宿祢は約300年生きて、景行(第12代)から仁徳(第16代)に仕え、古代豪族27氏の祖である。『記紀』では、武内宿祢は歴代天皇の忠臣という脇役になっている。しかし、唐突ながら、ひょっとすると真実は、武内宿祢は古代史の脇役ではなく、中心的役割(大王・天皇)の人物であったかも知れない。


 ついでに一言。全国に八幡宮がある。その発祥の神社は、大分県の宇佐八幡宮である。その「八幡さま」とは、実は、応神天皇なのである。神社の神様は、天照大神と思い込んでいる人が多いが、「八幡大菩薩」=「応神天皇」です。このことは、鎌倉時代に編纂された『八幡宇佐宮御託宣集』にしっかり書かれてあります。さらに、応神の父は住吉大明神で母は神功皇后と書かれています。


 こうしたことを知ると、天照大神―神武天皇の系列と住吉大神―応神天皇の系列の別々の系列があったようだ。そういえば、「神武東征」と「神功皇后・武内宿祢・応神の東征」は、いずれも、「東征」だなぁ~。別々の系統をひとつにまとめ上げたのが、『記紀』かなぁ~、空想はさらなる空想をもたらす。だから、古代は面白い。


(2)新羅王の5世が神功皇后の母


 そもそも、神功皇后の「皇后」すら怪しい、とする見解もある。とりあえず、単語の確認を。子→孫→曾孫(ひこ・ひまご)→玄孫(げんそん・やしゃご)→来孫(らいそん)で、神功皇后は、『日本書紀』では開化天皇(第9代)の四世・玄孫である。『古事記』では五世・来孫となっている。


 応神のライバルである仲哀天皇の第1皇子・麛坂(かごさか)皇子、第2皇子の忍熊(おしくま)皇子の母は、大中姫(おおなかつひめ)で、景行天皇(第12代)の孫である。


 大中姫と神功皇后を比べれば、大中姫のほうが格段に天皇血脈に近いのである。つまり、大中姫が皇后にふさわしいのである。しかも、第1皇子・第2皇子を出産している。ということは、本来は、大中姫が皇后で、皇太子は第1皇子(または、第2皇子)に決まっていた。それを、神功が、誰の子種かわからない応神を、仲哀の子種として擁立した。これは、仲哀の正統な後継者である第1皇子(または、第2皇子)側からすれば、謀反・クーデターであった。でも、謀反・クーデターは成功した。


『記紀』を読んでいると、そんなことが想像される。


 しかしながら、平安時代の昔から、神功皇后は抜群の人気者であった。何と申しましょうか、宝塚の男役スターって感じかな。人気が理由とは思わないが、神功皇后は明治以前は歴代天皇に数えられていた。


 なお、一言。


 継体天皇(第26代)は応神天皇(第15代)の5世の来孫となっている。神功皇后は、『日本書紀』では開化天皇(第9代)の四世・玄孫、『古事記』では五世・来孫となっている。この4世、5世、6世の重要度について。


 律令では、天皇の直系4世までは王・女王と呼ばれ皇親(皇族)である。5世は皇親(皇族)ではないが王号を有した。6世からは臣下である。


 706年からは5世も皇親に含めたが、798年から元に戻った。理由は、ごちゃごちゃした説明になるので省略。


 ただし、1世でも2世でも臣籍降下(皇籍離脱)はあり得る。


 まぁ、なんとなく、5世は皇族なのか臣下なのか中途半端な存在という感じである。だから、神功皇后の開化天皇の4世か5世かは、重大事で、『日本書紀』編纂者は、なんとしても4世にしたかったのでしょう。


 通常の感覚からすれば、傍系の5世が登場するということは、直系の1~4世が存在しないということなので、「断絶」ではなかろうか。


 それゆえ、天皇系譜を整理すると、次のようになる。


➀神武天皇(第1代)……フィクション

②欠史8代(2~9代)……『記紀』では、系譜のみの記載で、業績・物語がない。であるから、系譜を古くみせるための挿入にすぎない。ただし、葬り去られた葛城王朝の残像という説もある。

③崇神王朝……第10代崇神(すじん)~第14代仲哀天皇。本拠地が奈良盆地南東の三輪山のふもとなので三輪王朝とも呼ばれる。12~14代はフィクションのようだ。ただし、名前は忘却されたが、大王はいたようだ。

④応神王朝……第15代応神~第25代武烈天皇。応神から数代は、根拠地が河内なので河内王朝とも呼ばれる。

⑤継体王朝……第26代継体~現代。


 ついでに、神功皇后の母は、新羅国王の子・天之日矛(あめのひぼこ)が渡来して、その子・孫・ひ孫・玄孫、来孫、その次の6世である。『古事記』の応神天皇の箇所に、天之日矛のとても面白い物語の最後に家系の名前が列記されている。『古事記』には、天之日矛が持ってきた宝物が伊豆志の大神となった。現在の出石神社である。場所は、兵庫県の日本海に近い所にある。


『古事記』には伊豆志大神の娘をめぐって、秋山と春山が喧嘩をする。これまた、とても面白い物語です。春山は娘に接近するため、藤の花に変身して厠(自然流水活用の水洗トイレ)に忍びこむのであるが、そういえば『古事記』の神武天皇の箇所にも、大物主神が娘を獲得するため変身して厠(自然流水活用の水洗トイレ)に忍びこむ話がある。その娘の子が神武天皇の皇后である。どうも、古代にあっては、女性獲得手段として、厠(自然流水活用の水洗トイレ)に忍び込んで接近という方法があったのかもしれない。現代なら、逮捕・刑務所行き間違いなしである。


 なお、『日本書紀』には、垂仁天皇(第11代)3年に、天日槍(あめのひぼこ)が渡来した程度のことしか書かれていません。


(3)古墳にも、断絶の根拠


 古墳時代は、一般的に3世紀半ば7世紀末期までを指すようだ。各地の有力豪族が盛んにつくった。全国に16万以上ある。そのなかで、単なる有力豪族の古墳ではなく、大王クラスでないとつくれない巨大古墳が、3世紀後半から奈良盆地南東の三輪山のふもと(現・桜井市)に出現し始めた。最初の巨大古墳は、3世紀後半につくられた箸墓古墳(はしはか・こふん)である。280mの前方後円墳で、被葬者は倭迹迹日百襲姫命(やまと・とと・ひ・ももそひめ・の・みこと)(略して百襲姫・ももそひめ)とされています。百襲姫は孝霊天皇(第7代)の娘で、抜群の霊能力者です。卑弥呼の有力候補者です。


 大王クラスの巨大古墳の出現、それは初期ヤマト王朝の成立を意味します。初期ヤマト王朝は、崇神王朝とも三輪王朝とも呼ばれます。


 崇神王朝とは、『記紀』でいえば、第10代崇神、第11代垂仁、第12代景行、第13代成務、第14代仲哀を言います。ただし、崇神と垂仁は存在の可能性があるのですが、景行・成務・仲哀は不存在とされています。ただし、巨大古墳の存在からすると、初期ヤマト王朝なるものが存在していたことは確かです。初期ヤマト王朝の歴代の大王名は、ひょっとすると古墳を丹念に調査するとわかるかも知れませんが、まぁわからないでしょう。今のところ言えるのは、崇神と垂仁は存在していたかも知れない。でも、他の大王名はわからないということです。


 初期ヤマト王朝の直接間接の支配地域は、せいぜい奈良盆地だけと思われます。それも、有力豪族の連合と思われます。また、初期ヤマト王朝の根拠地は最初は奈良盆地の南東部だったが、奈良盆地北部へ移動したと推測されています。


 なお、「ヤマト」の言葉ですが、漢字ですと、「倭」「大和」「日本」の3種あります。また、「ヤマト」の意味は、①奈良盆地の特定地域、②奈良盆地全域、あるいは奈良県全体、③日本全体、と3種あります。間違えないように意識してください。


 初期ヤマト王朝の巨大古墳は奈良盆地につくられました。それが、4世紀末からの応神王朝になると、巨大古墳は生駒山地・金剛山地を超えて、河内(大坂平野南部)に続々とつくられるようになりました。仁徳天皇の古墳と伝えられている堺市の大仙陵古墳は525mです。


 奈良盆地の初期ヤマト王朝が河内に移動、もしくは河内にも拡大した、とする見解があります。しかし、初期ヤマト王朝とは、別の王朝、すなわち「応神王朝」が河内に成立し、「崇神王朝」は消滅したのではなかろうか、という見解もあります。「応神王朝」は「河内王朝」とも呼ばれます。応神王朝が、初期ヤマト王朝の移動・拡大なのか、別の王朝なのか、古墳だけからは判別できないかも知れません。


 でも、応神王朝の古墳の巨大さから推理されますが、奈良盆地の初期ヤマト王朝(崇神王朝)よりも、大王に権力が集中し強力になったことは間違いないでしょう。要因は、朝鮮半島からの技術移転と思われます。例えば、数匹の馬の活用は、数十倍の生産性向上をもたらしたことでしょう。河内での大土木開発は注目すべきことです。「大王への権力集中」⇄「河内の大土木工事」⇄「河内の巨大古墳」⇄「渡来人の先端技術活用」⇄「崇神王朝から応神王朝への交代(移動・拡大)」は、卵と鶏の関係みたいなもので、どれが原因で結果か判然としませんが、大きな変化があったことは確かでしょう。


 なお、大王に権力集中とは、大豪族の弱体化です。応神(15代)~雄略(21代)は、そうした時代です。


(4)イリ、タラシ、ワケ


「応神天皇」と「それ以前の天皇」の断絶の説明は、他にもいろいろあります。たとえば、名前が違うという説明もあります。


「崇神王朝」と「応神王朝」の天皇の和風諡(おくりな)は、次のとおり。


崇神天皇(第10代)……ミマキイリヒコイニエ

垂仁天皇(第11代)……イクメイリヒコイサチ

景行天皇(第12代)……オオタラシヒコオシロワケ

成務天皇(第13代)……ワカタラシヒコ

仲哀天皇(第14代)……タラシナカツヒコ

神功皇后(仲哀皇后)……オキナガタラシヒメ

応神天皇(第15代)……ホムダワケ

仁徳天皇(第16代)……オオサザキ

履中天皇(第17代)……オオエノイザホワケ

反正天皇(第18代)……タジヒノミズハワケ

允恭天皇(第19代)……オアサツマワクゴノスクネ


 つまり、大雑把に眺めると、崇神王朝は、「イリ」系と「タラシ」系の家系であり、応神王朝は「ワケ」系の家系となる。天皇の名前からみても、「応神天皇」と「それ以前の天皇」は断絶しているみたいなのである。

 

(4)応神天皇の皇后・妃と子供


『記紀』の応神天皇の箇所を読むと、「朝鮮半島との交流」と「応神天皇の妃と子供」の記事が、ほとんどです。『記紀』編纂者にとって、「応神天皇の妃と子供」をしっかり書くことが、皇統の正統性を確保すると考えていたのでしょう。


 応神天皇には皇后以外にも多くの妃、大勢の子供がいました。そのことは、応神は精力絶倫、女好きであることと同時に応神の権力が強力隆盛であったことの証左です。『日本書紀』と『古事記』には、ズラリと名前が記されていますが、人数が異なります。皇后・妃は8~10人、子供が19~27人です。『記紀』には、応神のガールハントの物語がいくつか登場しますが、それらは、それなりに面白いだけのことなので省略します。でも、日向国の髪長媛(かみながひめ)の物語は、あれこれ考えざるを得ないので、紹介します。


 応神即位11年、ある人が「日向国にお嬢さんがいて、名を髪長媛といいます。とても美人です」と言ったら、応神天皇は喜んで、すぐさま使者を派遣して、呼び寄せた。髪長媛が摂津国桑津村(現・大阪市東住吉区桑津町)に住んだ。そしたら、応神の皇子である大鷦鷯尊(おおさざき・の・みこと、後に仁徳天皇)が一目惚れしてしまった。そうと知った応神は、宴会に大鷦鷯尊と髪長媛を呼んだ。そして、応神は、群臣の居並ぶ中で、髪長媛を大鷦鷯尊に与えるというスケベ歌を歌った。ということで、大鷦鷯尊と髪長媛は、相枕枕く(あい・まくら・まく)となりました。


『日本書紀』にも『古事記』にも、ほぼ同様の物語になっています。親子で美女を取り合うというスケベ話ですが、ドロドロのスケベ話ではなく、麗しいお話にまとめてあります。


 しかし、次のお話との関連を考えると、応神天皇は、髪長媛を横取りされて、大鷦鷯尊を恨んでいたのではなかろうか。


 お話の予備知識として、


 応神天皇の皇后は、仲姫で、その子に、大鷦鷯尊(後に、仁徳天皇)がいます。


 皇后仲姫の実の姉である高城入姫は、応神の妃のひとりで、子に大山守命がいます。大山守命は大鷦鷯尊よりも年上です。


 皇后仲姫の実の妹である弟姫も、応神の妃のひとりですが、子はすべて女性です。


 応神天皇には他にも何人かの妃がいて、そのひとりに和珥(わに)氏の娘・宮主宅媛がいた。その子に菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこ・みこ)がいあた。和珥氏は奈良盆地北東の大豪族である。


 応神即位40年、応神天皇は、大山守命と大鷦鷯尊の2人を呼びました。

 応神天皇は質問した。「お前たち、子供は可愛いか?」

 2人は「はい、とても可愛いです」と答えました。

 応神天皇は、さらに質問した。

「年長者と年少者と、どちらがより可愛いか?」

 大山守命は、「年長者」と答えた。

 応神天皇は、あまり嬉しそうな顔をしなかった。

 大鷦鷯尊は、天皇の顔色をみながら、「年長者は多くの年を経て成年になっていますから心配はいりません。年少者は、未成年ですから心配で、それで可愛いです」と答えた。

 応神天皇は、「大鷦鷯尊が言ったことは、私の心と一致している」と喜んだ。


 実は、応神天皇は、内心、年若い菟道稚郎子皇子を可愛がっており、皇太子にしようと考えていた。それで、皇太子の可能性がある、大山守命と大鷦鷯尊の内心を知りたいと思い質問したのである。大山守命は、多くの皇子の最年長である。当時は、年長者が家督を相続するという慣習は弱いのですが、皇太子の有力候補であった。大鷦鷯尊は皇后が生んだ子である。でも、応神天皇は菟道稚郎子を皇太子にしたかった。


 問答の結果を踏まえて、応神天皇は、菟道稚郎子を皇太子にした。そして、大山守命を山川林野の管理に任じ、大鷦鷯尊を皇太子を助ける国事全般の役に任じた。


 応神即位41年、応神天皇は、明宮で崩御した。110歳。明宮は奈良盆地の南東地域にあった。ただし、『日本書紀』には、ある伝では大隅宮(難波宮)で崩御したとあります。


 その後、どうなったか。


 大山守命は皇位を狙って反乱を起こしたが失敗し、敗死した。


 大鷦鷯尊と菟道稚郎子は、帝位を互いに譲り合っていたが、3年後に菟道稚郎子が亡くなって、大鷦鷯尊が即位した(仁徳天皇)。「譲り合い」は、後世、儒教が広まってからの創作だろうといわれています。真実は?


『日本書紀』では、譲り合いがなかなか決着しないので、大鷦鷯尊に譲るため自殺したとする超美談。


『古事記』は、単に、死去した、としか記載がない。


『風土記』や『万葉集』には、菟道稚郎子は即位して「宇治天皇」になったような記載がある。


 和珥氏の伝承などから、「仁徳天皇による謀殺説」もある。


 そもそも、「応神天皇は存在しない」説もあれば、「応神天皇=仁徳天皇」説もあります。


 古代史は何が真実かわからないのですが、帝位継承をめぐって、ごたごたしたことは確かでしょう。


 応神の誕生から神功皇后・武内宿祢の東征の内乱流血。応神の崩御後の内乱流血。帝位の継承は、「必ず」と言っていいほど、流血のごたごたが発生するものです。権力には魔物がついている。


(5)朝鮮半島との関係


『日本書紀』応神天皇の記事は、「応神天皇の妃と子供」と「朝鮮半島との交流」が半々くらいです。読めば、渡来人の活用が応神王朝の権力強化に繋がった、と思えます。ですから、一応、「朝鮮半島との交流」を要約して列記します。


 応神即位3年、百済王に辰斯王(しんし・おう)がなった。百済が天皇に礼がなかったので、4人の使者を派遣して、礼がないことを問い詰めた。百済は辰斯王を殺して謝り、新たに阿花(あくゐ)を王にした。


※朝鮮古代史『三国史記』では、辰斯王(第16代、在位:385~392)の時代は、百済は高句麗との戦争真っ最中。とくに、392年、高句麗の広開土王は4万の大軍で、漢江(ソウルを流れている大河)以北を占領した。辰斯王は、猟に出かけて死亡した。その後、阿花が王となった。


 百済の立場は、すでに倭との同盟はある。高句麗と倭との間で、なんとか両方と上手くやりたいのだが、上手くいかない。


 応神天皇が存在したとして、その年代は『三国史記』から類推されます。4世紀後半から5世初頭となります。


 応神即位7年、高麗人・百済人・任那人・新羅人がやってきた。武内宿祢がそれぞれの韓人を率いて池を造らせた。それで、韓人池と名づけられた。


※韓人池の場所は不明です。渡来人技術による大土木工事が始まった・


 応神即位8年、百済人が朝廷に来た。百済記によると、倭に対する礼がなかったので、高句麗に領土を奪われた。王子・直支を倭へ派遣して友好を示した。


※『三国史記』『広開土王碑』によれば、阿花王(第17代、在位392~405)の時代も、百済と高句麗の戦争は続き、百済は負け続けた。とりわけ、396年の大敗北では、百済王は高句麗に「永久に奴客になる」ことを誓った。しかし、397年、百済は内密で倭との連携を深めるため、太子・直支(後の第18代・腆支王)を人質として倭に派遣した。『広開土王碑』には、399年となっているが、397年である。


 倭と百済の連合軍は新羅を攻撃した、また、高句麗の奥深くにまで攻撃したが、407年の大会戦で高句麗軍が大勝利し、以後、倭・百済連合軍は登場しない。『記紀』には倭が大敗北したことは無視されている。格好悪いので、記載しなかったのだろう。


 応神即位14年2月、百済王は絹衣工女を献上した。


※倭は先端技術の確保をとても重視していた。


 さて、百済王は、第18代の腆支王(てんしおう、在位405~414)である。『日本書紀』では、腆支王は直支王(ときおう)と書かれている。腆支王は人質として397~405年の間、倭にいた。「人質」の意味であるが、㋐兵員派遣の要請のため、㋑百済と倭の両王家の婚姻、㋩安全な倭へ太子を保護――といった複合的な意味のようである。㋑に関して言えば、実際、腆支王の夫人・八須夫人は倭人であったらしい。第19代の久尓辛王(くにしんおう、在位414~429)は百済と倭のハーフらしい。両王家の婚姻は、腆支王だけでなく、昆支王(こんきおう、?~477)など多数いた。昆支王自身は王位に就任しなかったが、複数の百済王が昆支王の子である。雄略天皇(第21代、5世紀の人物)と極めて親密だった。


 応神即位14年、百済から弓月君(ゆづきのきみ)が来た。そして、天皇に奏上した。「私の国の120県の民を倭へ連れていきたいけれど、新羅が邪魔して、加羅国に留まっています。」天皇は弓月君の民を迎えに行くため、加羅国へ葛城襲津彦(そつひこ)を派遣した。ところが、葛城襲津彦は3年経っても帰って来なかった。


※葛城襲津彦に関しては、「昔人の物語」(92)をご参照ください。


 応神即位15年、百済王は阿直伎(あちき)を派遣し、良馬2匹を献上した。阿直伎は菟道稚郎子皇子の師となった。倭は、王仁(わに)も呼び寄せた。


※馬の技術も先端技術であった。阿直伎は仏典を読めたので、菟道稚郎子皇子の師になった。応神天皇は菟道稚郎子皇子を可愛がっていたことがわかる。


 応神即位16年2月、王仁が来日した。王仁も菟道稚郎子皇子の師になった。


※王仁は、日本語の文字化に最大貢献した。王仁に関しては、「昔人の物語」(20)をご参照ください。


 応神即位16年、百済の阿花王が亡くなった(405年)。天皇は、腆支王(直支王)に百済王を継ぐべく帰国させた。


※阿花王の死後、王位継承で流血騒動があったので、倭の兵士が付き従った。


 応神即位16年8月、弓月君の民が来ない。葛城襲津彦も帰ってこない。それで、倭は新羅へ兵を派遣した。新羅王は、すぐさま謝罪した。弓月君の民は無事に渡来し、葛城襲津彦も帰国した。


※弓月君の民は、「秦」(はた)と命名された。養蚕、絹織物など先端技術を有していた。続々と、朝鮮半島から渡来している。倭は大歓迎である。


 応神即位20年、阿知使主、その子・都加使主らの一族が民を率いて倭へ来た。


※東漢氏(=倭漢直)の祖先で、土木建築、織物の技術に優れている。


 応神即位25年、百済王第18代の腆支王(直支王)が亡くなった。子の久尓辛王(くにしんおう、在位414~429)が第19代百済王になった。久尓辛王は幼少なので木満到(もくまんち)が実権を握った。木満到は腆支王(直支王)の妻と不倫関係にあり暴政を行ったので、倭は木満到を呼び寄せた。


※木満到に関する『日本書紀』の記述は、疑問視されている。


 応神即位28年、高麗(高句麗)の使者が倭へ来て文書を提出した。菟道稚郎子皇子(応神が寵愛し、皇太子にした皇子)が、それを読んで、「高麗王、日本国に教える」の部分が無礼だとして、破り捨てた。


※この頃は、倭と高句麗は完全敵対関係ではなく、交流が始まっていた。なお、菟道稚郎子皇子は、阿直伎と王仁の教育の成果で字が読めた。これは、スゴイことです。


 応神即位31年8月、塩を諸国に与え、船を造らせ、船が献上された。500船が武庫水門(兵庫県尼崎市武庫川)に集まった。


 このとき、新羅の使者が武庫に泊まっていた。新羅の船から出火して、集まった船に燃え移り、多くが焼失した。新羅の責任を追及したら、新羅王はすぐに優秀な船づくり職人を倭へ献上した。


※船づくりも先端技術である。


 応神即位37年、倭は阿知使主・都加使主を、織物工女を求めるため、中国の呉へ派遣した。道がわからないので、高句麗に道案内人を依頼した。そのお陰で、呉に達した。呉王は4人の機織工女を倭に与えた。


※後漢滅亡(220年)から隋が中国を統一(589年)するまでを「魏晋南北朝時代」と呼ぶが、暗記するのが困難なほど多くの国が興亡している。「呉」とは、おそらく「東晋」か「南宋」の江南地方(揚子江の南側)の半独立的な国であろう。


 倭の先端技術獲得の熱意を感じる。百済で一流の織物技術者である阿知使主が「中国の呉には、もっと優れた技術がある」と言ったのだろう。それで、その導入を目指したのだろう。


 参考までに、「倭の五王」について。中国の『宋書』倭国伝、『梁書』倭伝には、倭の「讃・珍・済・興・武」が、頻繁に南宋に入貢していたことが書かれている。どの天皇かは、諸説あるが、「応神(15代)~雄略(21代)、および2人の皇子」のなかの誰か5人である。応神も候補者のひとりである。


 応神即位39年、百済の腆支王(直支王)が妹の新齊都媛(しせつひめ)を倭に派遣して仕えさせた。新齊都媛は7人の婦女を率いてきた。


※腆支王(直支王)は、すでに応神即位25年に亡くなったと記載されている。なにかの間違いである。第20代の毗有王(ひゆうおう、在位429~455)の間違いではないか、といわれる。毗有王の外交手腕は最高で、在任中1回も戦争がなかった。


 応神即位41年2月15日、応神天皇の崩御。この月、阿知使主が呉から筑紫に戻ってきた。宗形大神が織物工女を欲したので、ひとりを宗形大神に奉った。3人の織物工女を連れて武庫に到着したが、崩御の後だった。それで、大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に献上した。


※宗形神社は通常は「宗像大社」と称される。宗像大社は、沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮の総称である。祭神は宗像三女神(宗像大神)である。素人でも、古代にあっては、北九州と朝鮮を結ぶ海上交通の要に位置している超重要な場所とわかる。『記紀』の神代の部分を読んでも、超重要扱いしていることがわかる。2017年に世界遺産になった。


 ともかくも、織物の先端技術がいかに重要視されていたかわかる。


 最後に、改めて言うと、応神天皇は存在自体がはっきりしない。仮に、存在していたとしても、『記紀』の内容からは、かなり離れている。どの程度離れているか。仲哀天皇の血統を継いでおらず、皇統は「断絶」している可能性が大である。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。