留学したかった
竹井氏は80年に生まれ、北海道中札内村で育った。時計やラジオなど身の周りの機械類を分解するのが好きな子どもだった。村立の小中学校へ通ってサッカー部に所属した。
高校進学の際、いわゆる地区トップ校が校区外にしかなく、理数系科目が好きだったこともあって、競争率の高くなる越境受験をするくらいならと、校区がない国立旭川工業高等専門学校電気工学科へ進学、家からは通えないので寮に入った。
卒業したら就職するつもりで、その前に留学してみたいと親に伝えた。が、受け入れ先のツテはあるのかと尋ねられて思いつかず、いったん断念する代わり、高専の成績優秀者なら無試験で入れた豊橋技術科学大学の電気・電子工学課程に01年、編入学した。編入するからには修士課程まで行こうと決めていた。
まだ国内の半導体メーカーが元気な時代で、将来性がありそうと半導体材料や集積回路を扱っていた石田誠教授の研究室に入れてもらい、基板上に結晶の薄膜を形成することをテーマとして与えられて、さまざまな薄膜をつくっては評価する日々を過ごした。
念願がかなって留学できることになったのは04年、修士課程2年目のことだった。大学間で学生相互受け入れ協定を結んでいた米ルイビル大学のケビン・ウォルシュ教授に自分で話をつけ、1年休学して、訪問研究生として受け入れてもらった。ウォルシュ氏はMEMS(微小電気機械システム)の研究者で、つくって評価して終わりではなく、つくって使うところまで手掛けていることに大いに感銘を受けた。
帰国後、石田氏にその感動を伝え、ラボの別グループが行っていたCMOS(相補型金属酸化膜半導体)/MEMSをつくって使ってみる研究へテーマを変更したいと希望した。最初は相手にされず、だったら米国の博士課程をめざそうと決意しかけたが、CMOS/MEMSグループのリーダーだった河野剛士助教(現・教授)が石田氏を説得してくれて、テーマ変更できることになった。06年、そのまま教室に残って博士課程へ進み、翌07年、日本学術振興会の特別研究員に採用された。この研究で、08年から10年にかけて4報の筆頭著者論文を発表している。
博士課程3年目の08年、石田氏がリーダーを務めていた文部科学省グローバルCOEプログラムの「博士後期課程 海外武者修行」の対象者に選ばれ、再び短期留学できることになった。かつて米国でポスドクをしていた河野氏から、勢いのある若手としてアリ・ジャビー・カリフォルニア大学バークレー校教授のことを教えてもらい、そのラボに夏の終わりから年末まで受け入れてもらった。懸命に実験に取り組んでアピールしたところ、ポスドクとして雇ってもらえることになり、翌09年に学位を取得すると、すぐ渡米した。