南方熊楠に憧れる
渡辺氏は73年、北九州市小倉西区で安川電機のモーターエンジニアだった父と専業主婦の母との間の長男として生まれた。1歳半で父が転勤になって埼玉県入間市へ引っ越し、2年後に妹が生まれた。
小学校低学年のとき、妹がピアノを習いたいと言い出して、一緒に通うことになり、高校生まで続けた。
受験して、東京都板橋区の中高一貫校である私立城北中学へ進学した。科目では数学が好きだった。剣道部へ入ったところ思っていた以上に厳しく、その甲斐あって関東大会へ出場したりできたものの、同期18人のうち3年の引退時まで残っていたのは4人だけだった。高校では違う競技をしてみようと思って陸上部へ移籍、100m走と走り幅跳びに取り組んだ。幅跳びは都大会決勝に残ったことがある。
高2のとき所沢の本屋で、中沢新一氏が生物学者・南方熊楠について書いた書籍をたまたま立ち読みし、あまりの面白さに購入して帰った。そこから、がぜん生物に対する興味が湧いて、3年時には将来は生物学の研究者になろうと思っていた。
父と2人でキャンパスを見学に行き、仙台の街の雰囲気に惹かれたこともあって東北大学理学部生物学科へ進学した。バイクで全国を走り回り、和歌山県白浜町の南方熊楠記念館も訪れた。
4年生で、DNA修復を研究していた山本和生教授の研究室に配属された。モノは時間経過と共に劣化して元に戻らないのに、生物は劣化しても自ら修復する。そのメカニズムを解明したいと思った。卒業研究で、大腸菌や酵母のDNA修復酵素をノックアウトしてから活性酸素を作用させると現れる変異を調べた。
そのまま修士課程、さらに博士課程へと進んだ。塩基置換変異が生じやすい箇所の目印となるDNAの塩基配列「フランキングベース」を研究し、遺伝子の方向は重要な決定要因ではないようだと、01年の『Molecular and General Genetics』誌で報告した。
すると、論文の抜き刷りを送ってほしいと、DNA修復の研究者として世界的に有名だった米バーモント大学のスーザン・ウォレス教授から連絡があった。山本氏が、筆頭著者が学位取得後に留学を希望しているのだけれど受け入れ先はないだろうかと尋ねてみたところ、ポスドクとして雇えると返事があった。
その後、「フランキングベース」と周辺配列によって変異の起こり方が違うことを確認し、同年の『Biochemical and Biophysical Research Communications』誌で報告すると共に、その成果で02年に学位を取得した。
直後に渡米、ウォレスラボに合流した。在米3年目の05年、DNA修復酵素エンドヌクレアーゼⅢの基質結合ポケットのアミノ酸が塩基認識や触媒反応に果たす新しい役割を同定して、『Journal of Biological Chemistry』誌で報告している。
同じ頃に山本教室の布柴達男助教授から、青山学院大学理工学部の降旗千恵教授が助手を探しているのでどうだと声がかかり、05年4月、帰国した。
研究室では、独自に開発したマイクロアレイと定量的リアルタイムPCRで遺伝子発現解析を行っており、渡辺氏も10年の『Cancer Cell International』誌に、12個の遺伝子が肺がんのサブタイプを見分けるのに重要であることを報告するなど計3報、筆頭著者として論文を仕上げた。