(1)足軽とは
「骨皮筋衛門」は、非常に瘦せこけている人物をからかう場合に使う言葉で、実際に、その名前の人物は存在しません。しかし、「骨皮道賢」(ほねかわ・どうけん、生没?~1468)は、実在の人物です。
応仁の乱(1467~1477)の初期に活躍した足軽大将である。
歴史は、トップクラスの人物ばかりが登場して、一般人は「その他大勢」である。希に、さほどの地位ではないが、ピリッと登場する人物がいる。骨皮道賢も、そんなひとりである。
最初に、「足軽」について。
平安時代にも「足軽」という単語が出ているようですが、検非違使・武士の雑用係という感じです。鎌倉時代も同様です。合戦は、騎馬武者の一騎打ちが原則なので、馬に乗らない足軽は、雑用係、従者です。
室町時代になると、一騎打ちの個人戦から歩兵の集団戦に変化していきます。応仁の乱では、足軽が戦力として、一躍脚光をあびます。そのとき、骨皮道賢が登場したのです。
同時代の人々の足軽への評価は、マチマチです。「装備はバラバラだが、戦力はたいしたものだ」という声もあれば、「合戦にかこつけて、もっぱら強盗・略奪ばかり」という声もある。
応仁の乱で、足軽が一躍脚光を浴びたのは確かであるが、この段階では、主要戦力ではなかった。応仁の乱の頃の足軽は、もっぱら金で雇われる臨時下級戦闘員であった。
戦国時代になると、足軽を統一装備・集団訓練して、長槍隊、弓隊、鉄砲隊などが組織され、主要戦力になった。足軽大将の地位も向上して、中級武士並みになった。むろん、ヒラ足軽は、下級武士・臨時雇用であった。なお、「足軽」とは別に、「雑兵」という臨時兵卒も多く発生した。
江戸時代に入ると、大半の足軽は無用の存在となり、解雇され大量の牢人を生んだ。なかには、大名・武士の家の奉公人(中間・小者)になる者、足軽という身分(士分ではない)で採用された者も、稀には下級武士になった者もいた。
(2)七福神強盗
無視されがちな大前提として、14~17世紀は人口の大激増期であった。日本の時代別人口推移を眺めると、縄文時代10万~20万人だったのが、農耕が始まった弥生時代から人口増となった。奈良時代前に、約600万人に達し、奈良・平安・鎌倉時代は、ほぼ500万~600万人で推移した。それが、室町時代(1336~1573)に入ると激増期に転じ、江戸時代前期の1700年に3000万人となった。その後、停滞したが、明治維新・産業革命で3回目の激増期となった。そして、現在は減少期で、おろおろ……。
室町時代になって、なぜ人口増が発生したのだろうか。おそらく、鉄製農機具、農耕牛馬、下肥肥料、二毛作、品種改良などによって、生産量がものすごく増加した。それと、あまり述べられていませんが、おそらく皆婚(かいこん)社会に進展したと思われます。約20年前から、未婚化・少子化が問題視されていますが、「皆婚社会」という大テーマは研究途上のようです。ともかく、室町時代は人口激増という激変社会になったのです。
大都市には必然的に貧民街が形成される。いつの頃か定かではありませんが、室町時代では、平安京南部(六条以南)、現在のJR京都駅や東寺周辺は、貧民街(庶民街)である。芥川龍之介の『羅生門』は、平安時代末期の説話集『今昔物語』がベースなので、平安時代末期には、羅生門(=羅城門)のある平安京南端は、貧困地帯になっていたことがわかります。
ここで、平安京の基本地図について一言。碁盤の目のように、東西・南北に大路が建設された。東西の大路は、北から一条大路~九条大路となる。南北の大路は、中央に朱雀大路が走り、それぞれの名がある。左京(京の東側)は、朱雀大路の東が、壬生大路、東大宮大路、東堀川大路、西洞院大路、東洞院大路、東京極大路、そして鴨川が流れる。右京(京の西側)の南北の大路は省略。
北の中央に「大内裏」があり、二条大路の「大内裏」への入り口が「朱雀門」である。「大内裏」とは、天皇が暮らす「御所」(=内裏)を含む朝廷の官庁地域である。
大内裏から朱雀大路を南に下り、九条大路との交差点が「羅生門」(羅城門)である。
ただし、当初の大内裏・御所は焼失し、室町時代(現在も)の御所は平安京の北東へ移転した。また、室町時代の朝廷機能は極小化して、「御所(=内裏)プラス若干」となり、大内裏はなくなってしまった。
また、朱雀大路の西側(右京)は、室町時代にあっては荒廃して荒地状態となっていた。
大雑把に言って、室町時代の平安京は、北東部には、室町幕府の「花の御所」、天皇の「御所」があり、いわば、高級御殿地域である。「花の御所」は、天皇の「御所」の2倍の面積であった。
平安京南東部は貧民街(庶民街)となっていた。
室町時代の京南部の貧民(庶民)街には、必然的に「どんな職にでも」という腕っぷしが強い足軽候補者が大勢集まる。足軽候補者は、なんらかの縁故で武家の下級兵士、雑用兵士になった。ここで、目立ったのが、骨皮道賢である。それについては、後述します。
当然、強盗団も生まれる。強盗団で有名なのが、「七福神強盗」である。女ひとりを含む7人組で、頭巾が七福神だったようだ。押し入られたほうは、死傷者を回避するため、及び、有り金全部を強奪されるのを避けるため、相当額の金品を喜んで差し出し、翌朝には、店に「七福神がお越しになった」と大きな貼り紙に貼った。そして、笑顔で「めでたいめでたい」と大声ではしゃぐのであった。これにて報復なし。侍所(さむらいどころ)配下の目付(めつけ)も、捜査しない、という、なんとも、日本犯罪史上、奇妙奇天烈な強盗団であった。
数十年前、七福神強盗団をテーマにした小説(書名は忘れました)を読んだが、女性はお姫さまであったような記憶です。
七福神セット信仰の流行は、室町時代からで、1420年には、京で七福神の仮装行列が行われた。この強盗団は七福神流行の要因のひとつかも知れない。
むろん、こうしたほのぼのした強盗団ではなく、残虐非道な強盗団が横行し、土倉(どそう)酒屋という高利貸しは、用心棒を雇って対抗した。腕っぷしの強い者は、土倉酒屋の用心棒になる道もあった。
若干、土倉酒屋の説明をします。ともに高利貸しです。利息は月7%、年84%(7%×12ヵ月)が多かったようです。参考までに、現在の日本では、上限が年20%です。1983年以前は、恐ろしいことに109.5%でした。
土倉は、土の倉に担保の質草を入れるところから、そう呼ばれた。酒屋は本業の酒屋で儲けた金を貸すところから、名づけられた。でも、土倉酒屋の大元は、有力寺院(比叡山、興福寺、日吉大社など)です。
当時の流通は、寺社で神仏に供える品物、すなわち神供(じんく)・お供え物という大義名分が必要だった。具体的には、油・酒・反物・紙などは神仏に供えられ、その御下がりが市中に出回るというものです。そうでないと、至る所に存在する関所で関銭(通行料)、港では津料(つりょう)を払わねばならず、それどころか、品物自体が奪われてしまう。
土倉酒屋は、通常、有力寺院から元手を融資してもらっているので、儲けの何割かは有力寺社へ上納しなければならなかった。高利貸しの元締めは、有力寺社なのである。
話が前後しますが、有力寺社から融資を受けている土倉酒屋が七福神強盗の被害に遭うと、有力寺社への上納金・返済金がチャラにできたのではなかろうか。「七福神さまに、すでにお金をご用立てしましたので、上納金・返済金はございません。神仏相互で交渉してください」というわけだ。そんなことで、七福神強盗は「めでたい、めでたい」とされたに違いない。
なお、腕っぷしの強い者は、縁があれば有力寺院の僧兵となった。
わかり切った話であるが、ひ弱な者は餓死が当たり前の時代であった。飢饉のときなどは、死体だらけの光景となった。