送り込んだ政治家の変心
連載のなかで93年9月に廃止を決定した自民党への政治献金の斡旋を一新した、政策評価による企業献金の再開を04年1月に発表したことはすでにお知らせした。その半年前の夏のセミナーで正副会長の多数出席する会議で、経団連は政治献金について集中討議、大筋で復活させることを決めていたことも触れた。
だが、その具体案、さらには日程さえも詰めていなかった。驚くべきことに、それが急転直下、猛然と動き出す。契機となったのが経済3団体の結束で01年7月に政界へ送り込んだ政治家、近藤剛の驚くべき身勝手な振る舞いであった。一体何があったのか。
会員企業やフォーラムの期待を一身に背負って当選した近藤がこの重圧に耐えきれなくなったのか、辞職を突然宣言。当時の首相、小泉純一郎の推進する「聖域なき行政改革」の目玉、高速道路の民営化で焦点の日本道路公団の総裁に03年11月、いきなり就いてしまった。約4年の任期を残していたのにもかかわらずである。
近藤氏を推した企業人政治フォーラム(経団連HPより)
経団連はもちろんフォーラムの関係者に相談は一切なかった。独断専行の決断には怒りが渦巻いた。選挙活動に従事した会員企業らは「やってられない」と意気消沈。これを機に金食い虫の選挙とは手を切り、水面下で進めていた企業献金の再開に向けて動き出した。
発表した新型献金は政策評価をベースとしていた。政党の政策と経団連の政策との合致度や実績を採点、献金額に差をつける。弾んでもらいたければ、経団連と開きがないようにして欲しいとの一種の“利益誘導”である。かつてのように自民党一党に対する献金ではない。対象は民主主義を支えるすべての政党。政権交代を前提としていた。
念頭にあったのは英米を範にした2大政党制への移行で、その考え方は企業人政治フォーラムのスタイルが土台になっていた。創設時の政経懇談会の講師に共産党を除く自民党以外の政治家も講師として招請するなど、いわば全方位外交だった。若手を中心とする講演会もしかり。シンポには大学教授など学識経験者も呼んだ。残念なことに、2大政党制を志向した奥田の当初の思いとは裏腹に最近の10年は自民党へ傾斜していた。09年からの民主党政権下で経団連が相手にされなかった教訓も大きい。自民党一強に依存した結果、フォーラムの活動は講演会にしても自民党議員が中心。野党とのパイプは細っていた。
だが、ここにきて戦略の大幅転換が迫られている。24年10月の総選挙で自民党が少数与党に転落したからである。自民党だけでは国政は進まない。野党へ秋波を送るかどうか考える必要が出てきた。
では、この30年でフォーラムの制度設計自体は変わったのか。まず、全体像をみてみよう。ウェブサイトに掲載されている目的は、①企業人と政治家が率直な意見交換を行う場を多彩に設け、企業人の政治への関心を高める、②政治家に経済界の実情をよりよく知ってもらう、③より多くの企業人の声により、日本の政治を変えるーーを挙げている。当初のほとばしるような情熱が消え、希薄になってしまった。隔世の感がある。
トップの発言はどうか。フォーラム会長の片野坂真哉ANAホールディングス会長はウェブサイトのなかで、「企業の事業活動と内外の政治・社会情勢は、かつてないほど密接なつながりを持つようになってきております。こうした中でより良い政策を実現していくためには、『政治』と『経済』の一層の連携強化と、企業人の皆様による積極的なご意見の発信が不可欠」として入会を呼びかけている。財界出身の政治家を送り出そうとの意気込みはない。むしろ、情報発信に力点が移ってきたとみてよいだろう。
最も変化したのは自民党依存への一本足打法の固定化、さらには講師数の激減だろうか。25年は第1弾として、小野寺五典自民党政調会長を2月に招いた。24年は先の総裁選に出馬した財務省出身の小林鷹之元経済安全保障担当相だけ。23年は林芳正外相(当時)、小野寺元防衛相、萩生田光一(同)政調会長の3人。新型コロナウイルス禍という事情もあったのだろうが少なすぎる。22年は木原誠二副官房長官(同)、茂木敏充幹事長(同)、福田達夫総務会長(同)の3人。21年は菅義偉前首相(同)など。