■卒後すぐ出会った患者さんが「恩師」

――先生ご自身、医療者として、糖尿病患者への向き合い方の転換点があったのでしょうか?

清野 僕はね、研究者で大学教授もしていました[iv]ただ、転換点は非常に早くて、1967年に大学を卒業後、1969年に兵庫県立尼崎病院(当時)の内科に行ったときでした。

 

 当時は今のような専門医制度はなく、それぞれの興味分野で専門性を深めようとしていました。僕は、後に京大総長になる井村裕夫先生のもとでインスリン測定や膵β細胞の研究を行っていたこともあり、糖尿病をやりたいと思ったが、指導者もいない。そこで自分で糖尿病外来を開設しました。しかし、知識も十分でないため、看護師、管理栄養士と3人で、いわばチーム医療をしていた。むしろ、いろいろ教えてもらう立場で、栄養に興味をもつきっかけにもなりました。

 

 その頃、ある糖尿病患者さんに出会いました。妊娠を希望して何回も入院され、それこそ豆腐とおからばかり食べて努力したが、流産を繰り返した。学校の先生だった、ものすごく弁が立ち文章も上手な人で、こんな辛いことを自分一人で考えているのも嫌だから、糖尿病患者の会を一緒につくりましょう、ということになった。1970年前後のことです。私は、井村先生からサイエンスを、その患者さんからは患者会のやり方とか他人の説得の仕方などを学んだので、人生の恩師のひとりだと思っています。

 

 だからやはり自分の中で「患者さんのために」という意識はものすごく強く、兵庫県の糖尿病協会から始まって、協会活動を50年以上続けています。同僚たちからは「そんな活動に時間を使うくらいなら、論文の一つでも書く方がいいんじゃないか」と言われていましたけどね。

  

――2004年に関西電力病院の病院長と日糖協の理事長に就任される前、1990年代には、分子生物学的な研究も多くされていたので、研究の方が先かと思っていましたが、むしろ患者さんのことが常に念頭にあったということですね。

  

清野 そういう経緯があって僕は、日糖協の活動を行う上で現場感覚が必須だと確信しており、今も病院で週2回外来をして、1回に40人くらい診ています。また、日糖協は医療者、患者、企業などの団体を巻き込んで活動を展開しているという点が評価され、国際糖尿病連合の中で一つのモデルとして紹介されたこともあります。日糖協は患者会とは異なるものの、患者会を主体とした「友の会」が全国に万遍なくあったので、下から上へと積み上げ総合することで発展できたのかなと思います。

  

――最後に、この記事を読む医療者、医薬業界や行政の関係者に向けてメッセージをお願いします。

  


清野 まず、医療者や医薬業界関係者が、スティグマの発生源であることが非常に多いという事実を知っていただきたい。ただ、これは気づいていただければ何とか是正できると思うので、不適切な用語をやめようとか、自分たちのできることから始めて、医療者の発する「乖離的スティグマ」をなくしていきましょう。

  そして、医療者は患者と同じ目線でコミュニケーションをとっていただきたい。HbA1cの値が上がったら、「饅頭か菓子パンでも食べたのでしょう?!」と一方的に責めて、暗黙のうちに「生活習慣が乱れた人だから数値が悪くなる」という烙印を押していませんか。そういうときは、なぜ食べてしまったのか、原因や心理をよく聴いて、患者さんと共に解決策を考えてほしいのです。 

 また、糖尿病患者への差別・偏見をなくすことは非常に難しく、メディアの責任も非常に大きいと感じています。とにかく怖がらせるような啓発を見直さなければいけません。それで受診を促そうとしているのかもしれませんが、糖尿病でない人に「糖尿病は恐ろしい病気だ」という偏見を植え付け、「社会的スティグマ」につながりかねません。

 

 アドボカシー活動は患者自身がするというより、我われが患者の声を代弁して行政やメディアを含め社会に働きかけるものです。行政を動かすには、患者の意見をしっかりまとめ、糖尿病でない一般の人のコンセンサスも得る必要があります。ただ、日本人の場合、一般的にアドボカシー活動に無関心で、医療に関わる企業がようやく参加し始めたところです。そこをどう啓発していくかについては、むしろアイディアを広く問いたい気持ちです。

 

 ひと通り啓発して「終わりました」ではなく、次の段階で具体的に何をするか考え、積み上げていかねばならないと切に思います。

  

【2022年4月22日取材】