●不思議を直視する姿勢


 この本で取り上げられている米国北東部の地方都市ル・ロイで発生した集団心因性疾患も、女子高生にみられたいわゆる集団ヒステリー症状だが、著者は患者や保護者たちにもこうした症状説明を慎重に行う。ル・ロイ事件は私もテレビの特集番組で観た記憶があり、オサリバンは、ル・ロイ事件を追跡し、真相に迫ったのは日本のメディア報道だけだと言っている。「視聴者の誤解を解く」スタンスに敬意を示すのだが、テレビ番組は「集団ヒステリー」を面白がっているだけの印象もあった。米国のメディアは水源汚染説などを取り、これを言い出した米国の著名な環境活動家がル・ロイ事件の追跡をしていないということが著者の怒りを買っている。


 日本のテレビ番組は確かに真実に目を向けているが、関心の矛先は、繰り返せば「集団ヒステリー」であり、若い女性の叫びが「興味の対象」として消費されていることに変わりはない。ただ、オサリバンが評価したいのは、集団社会性疾患を認知し、他のある意味「わかりやすい」原因を日本の番組が否定したことである。わかりやすい原因とは、水質汚染、HPVワクチン説などだ。物理的・生物学的に、既存の常識的な科学に納得したいのが米国の世論で、「目に見えない感じ」の「不思議な」疾患に一定の関心を寄せるのが日本の世論ということかもしれない。なぜ日本以外では「集団心因性疾患」が眉唾視されるだろうか。


●フロイト流はやめよう


 この背景についてオサリバンは、「集団心因性疾患」、「集団社会性疾患」と診断されることに人々が拒絶感を持ち、多くのジャーナリズムが環境汚染やHPVワクチンなど、いったん了解はしやすいが、実は根拠のない原因を煽り立てることに、患者も患者家族もすり寄る光景があることも提示している。オサリバンは「集団心因性疾患」を暴論と見做し、医療者の「安易な診断」とするジャーナリズムにかなり呆れ、怒っている。どちらが科学的か、という前提は、本質的にはパターナリズム的視点への一撃でもある。


 一方、裏返してみると、こうした集団心因性疾患、つまり集団ヒステリーには、若い女性の特性として侮蔑的に扱われる側面が大きいため、取材先に敬意を払うために、「心因性」とされる疾患名断定にメディアサイドがナーバスになるということも大きいのかもしれない。「集団心因性疾患」だというと、人権侵害的なニュアンスが伝わるのではないかとの懸念を自戒しているようにみえる。どうやら「ヒステリー」は女性差別用語としてコンプライアンスに反するということになっているらしい。


 筆者自身も、50年ほど前に流行った若い女性の「起立性低血圧」(この症状は同書でもかなり詳細に説明されている)は、「いい女アピール」だと揶揄していた。最近では、片づけることが苦手な若い女性が「発達障害」と診断されて安心するという精神科医の本を読んで、若い女性の「心因性」に甘ったるい印象も受けた。だが、こうした印象は、全体の若い女性に対する予断を定着させるだけでなく、「どういう疾患か」を探るなかで、邪魔な「非常識」にもなる。その点を理解する意味でも、オサリバンの「集団心因性疾患」の科学的関心を知る必要は大きい。