(1)『無名草子』の「女性評論」

 

 紫式部(973?~1031?)から、約200年後、藤原俊成女が歌人として大活躍しました。『無名草子』(むみょうぞうし)は、藤原俊成女の作とされています。刑事ドラマ的に言えば、「状況証拠は藤原俊成女ですが、今ひとつ確実な物的証拠がない」ということなので、『無名草子』の作者は「通説」では藤原俊成女となっています。高校の歴史教科書に載っていないこともあって、さほど知られていないようです。


 参考までに、藤原俊成(1114~1204)は、第7勅撰集『千載和歌集』の撰者で、歌壇のトップにあった。子の藤原定家は、第8勅撰集『新古今和歌集』の実質的撰者である。また定家は『小倉百人一首』の撰者でもある。藤原俊成女(1171?~1251?)は俊成の娘の子、すなわち俊成の孫で、俊成の養子です。藤原俊成女の和歌が『小倉百人一首』にないのは、不思議がられています。たぶん、彼女の代表作「下燃えに」が、あまりにもエロテック(妖艶過ぎる)だからと思います。本筋から離れすぎますので、省略します。


『無名草子』は「物語」の形式をとっていますが、実質的には日本最古の「文芸評論書」です。4部構成で、「序」「物語評論」「歌集評論」「女性評論」となっています。


「序」は、83歳の老尼が、当時は荒野に近い東山を散策していたら、古びた屋敷があり、そこの若い女房達とおしゃべりをすることになった。それを老尼が書き取った。


 順番が後先になりますが、「女性評論」を先に紹介します。取り上げられている人物は、次のとおりです。小野小町、清少納言、小式部内侍、和泉式部、宮の宣旨(みやのせんじ、=大和宣旨)、伊勢の御息所(普通は単に「伊勢」)、兵衛内侍(琵琶の名手)、紫式部、皇后定子、上東門院彰子、大斎院選子、小野の皇太后宮歓子(=藤原歓子)。文芸に限定せず、音楽・生き方を含めての女性論で、作者は、どうやら、伊勢、大斎院選子、皇后定子、小野の皇太后宮歓子(=藤原歓子)の4人に感嘆しています。


 では、紫式部について、どう書かれているのか。


 まず、『源氏物語』執筆の経緯が書かれています。当時も2説あったことがわかります。


 とりあえず、前提知識として、大斎院選子と上東門院彰子について。


 大斎院選子(964~1035)は、現代では選子内親王と呼ばれるのが一般的です。村上天皇(第62代)の皇女で、12歳の時、卜定(ぼくじょう)によって賀茂斎院となる。以後、円融(64代)、花山、一条、三条、後一条の5代57年間、斎院を務めた。それゆえ大斎院と称されました。


「斎院」とは、賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕する皇女である。「賀茂斎王」と称することもある。伊勢神宮にも似た役割で皇女が派遣され、こちらは「斎宮」と称される。賀茂神社の最大の祭祀は5月の賀茂祭(=葵祭)で、主催者は斎院(=賀茂斎王)です。賀茂祭は貴族が主体の祭で、見物のため牛車がズラリと並んだ。平安時代、「祭」といえば、「賀茂祭」をいった。7月の「祇園祭」は、八坂神社(祇園社)の祭で、庶民が主体である。


 上東門院彰子(988~1074)は、藤原道長の長女、一条天皇(第66代、在位986~1011)の皇后(中宮)、そして、後一条天皇、後朱雀天皇の生母(国母)です。


 要するに、大斎院選子と上東門院彰子は、日本社会の女性トップどころか、選子は聖界のトップ、彰子は道長亡き後の摂政関白頼道(彰子の子)の上の存在で、2人は聖俗のトップです。


 ひとつ目の説。


 大斎院選子が上東門院彰子に「何か面白い物語はありますかね」と尋ねられました。


 上東門院彰子は紫式部を呼んでアドバイスを求めた。

「何を差し上げたらよいだろうか?」

 紫式部は「珍しい物語は何もございません。新しく作って、それを差し上げなさいませ」と返答した。

 上東門院は「それでは、お前が作りなさい」とおっしゃった。

 それで、『源氏物語』が書かれた。

 

 この話は、『古本説話集』『河海抄』などに載っています。聖俗のトップ2人の意向で書かれたのが『源氏物語』ですよ、スゴイですねぇ~、と思わせたいのでしょね。そんな意図が透けて見えます。それだけではなく、『源氏物語』は、聖俗にまたがる物語ということを暗示しているのかも知れません。


 2つ目の説は、宮仕え以前に、自宅で作った。それが評判となって、中宮彰子に召し出された。中宮彰子と書きましたが、このとき、彰子はまだ上東門院になっていませんので。そして、「紫式部」の名は『源氏物語』に由来していると記載されています。


 『無名草子』では、「いづれか まことにてはべらむ」となっています。


 現代の説では、紫式部の夫・藤原宣孝(のぶたか、?~1001)が死亡した後、自宅で書き始めた。その後、中宮彰子に仕えるようになってからも、追加・補筆を書いた、ということらしい。どの部分が自宅か宮中か、あるいは、別人が書いた部分もあるのではないか、などについては、研究・推測の世界です。また、「紫式部」の名前の由来も、諸説あります。


 次に、『無名草子』は、『紫式部日記』を根拠に彼女の性格を語っています。紫式部は大変な内気、恥ずかしがり屋で、目立ちたくない、学才でおべんちゃらを言うことは絶対しない。でも、道長と上東門院彰子の部分は、すばらしく書き過ぎているので、紫式部には似合わない。それは、道長と上東門院彰子の「御心柄なるべし」(ご性格でしょう)と、道長・彰子への忖度を匂わせています。


 そもそも、現代人は『日記』は他人に読まれない前提であるが、当時の『日記』は他人に読まれるのが前提です。とりわけ、『紫式部日記』は、道長・彰子が絶対読むが大前提で、いわば、道長・彰子への「報告書」だろうと思います。


 なお、『紫式部日記』は、次の内容です。


➀日記部分で、1008年秋~1010年正月の1年数ヵ月の出来事。中宮彰子のお産の記事が中心。道長にとって彰子の出産は、まさに天下の一大事なので、紫式部は、記録を命じられていたのかも知れません。

②消息文。周辺の女房たちの批評。和泉式部、赤染衛門への批評も有名ですが、とりわけ、清少納言をボロボロに書いているのが有名です。他人の批評だけでなく、自分への批評もある。とりわけ、出家生活を望みながらも、それに徹しきれない心情を「悲しくはべる」としています。

③中宮彰子の御堂詣で、及び道長と紫式部とのやりとり。


『無名草子』の「女性評論」の箇所は、そんなところですが、実は、「序」の後半からのおしゃべりでは「この世で一番捨てがたいものは何か」です。一に「月」、二は「文」、三は「夢」、四は「涙」、五は「阿弥陀仏」、六は「法華経」となっています。そして、「法華経」の箇所で、次のような会話があります。


「なぜ『源氏物語』の中に、法華経の一偈一句(いちげいっく)もお姿をお見せにならないのでしょう。『源氏物語』の欠点です」

「紫式部は、法華経をお読みにならなかったのかしら」

「さぁどうでしょうか。あれほどの人が、法華経を読まなかったなど、有り得ません」

「それはそうとして、実は紫式部は強い信仰心の人で、朝夕ひたすら勤行して、俗世間のことは心にとめない人、と見られていたようです」


 予め一言。


『源氏物語』は、前半は女性遍歴のスケベ話、後半は女性遍歴ながらも仏門がちらちら開いてきます。


(2)『無名草子』の「物語評論(登場女性評価)」


「序」に継いで、「物語評論」が始まり、かなり長い『源氏物語』評論となっています。最初は、54帖全体をさらっと評論しながら紹介してあります。それにならって、私もさらっと全体を要約します。


 なお、「帖」とは、「巻」・「編」・「章」でもいいのですが、『源氏物語』は、昔から「54帖」と言われていたので、その言い方が定着しています。蛇足ですが、「帖」は半紙の数え方で、20枚で1帖です。


『源氏物語』の基礎知識ですが、3部に分かれます。2部説、4部説もありますが、3部説を支持する人が多いようです。


 第1部1帖~33帖。誕生から栄華の絶頂まで。光源氏と関係する女性は、葵の上、六条御息所、空蝉、夕顔、藤壺(父の更衣)、若紫(幼女、成長して紫の上)、末摘花(醜女)、朧月夜、花散里、明石、斎宮女御(後の秋好中宮、源氏は思うだけに終わった)、朝顔。


 22帖~31帖は、玉鬘(たまかずら)十帖といって、玉鬘中心の物語。玉鬘は夕顔と頭中将の娘であるが、源氏の養女となり、あれやこれや。


 32帖・33帖は源氏絶頂。


 第2部34帖~41帖。朱雀院は末娘の女三の宮を源氏に嫁がせる。女三宮を中心に物語が展開される。「出家」が、大きなテーマとなっていく。41帖(雲隠)は、本文なし。源氏の死を暗示するため本文なし、と言われている。私の推理は、紫式部は、死後の世界を書こうと思ったが、「分からない」「怖すぎる」ため書けなかった、というものです。


 第3部42帖~54帖。女三宮の不義の子・薫(源氏の子として育てられた)と源氏の孫・匂宮が中心。45帖~54帖は宇治十帖といわれる。宇治の大君・中君の姉妹と薫・匂宮とのゴタゴタ。薫・匂宮は浮舟を巡って三角関係になる。浮舟の自殺未遂。薫は浮舟に会おうとするが、仏道専心のため拒否される。読者にすれば、なんとなく中途半端な感じで終わっています。


 さらに、簡略すれば、第1部は積極果敢ドンドン女性遍歴、レイプもあれば近親相姦、不倫もある。『源氏物語』のパロディである井原西鶴の『好色一代男』の世之介は色道一直線です。ラストシーンは女護ヶ島への船出です。船に持ち込んだ愛読書は『源氏物語』でした。そして「行方知れずなりにけり」。井原西鶴については「昔人の物語(12)」をご参照ください。


 第2部は女性遍歴だけでなく出家も考えるようになりました。


 第3部は「悩める人」はどうなるか。はたして仏道で救われるか。私の推理は、紫式部は前述の『紫式部日記』消息文の自己批評と同じ感じで、「仏道でたぶん救われる。でも、確信に至らない。わからない」、ということで、おしまい。


 前述したように、なにかしら中途半端な気分なので、多くの教養人が、『源氏物語』の続編を書いています。なかでも『山路の露』(建礼門院右京大夫の作と推測)、『雲隠六帖』(作者不明)が知られています。


 余談かも知れませんが、源信(942~1017)の『往生要集』の影響が大きいかも知れません。『往生要集』は、抽象的な「地獄」を、具体的な恐るべき光景として詳細に文字化した。それを読んだ人、聞いた人は、震え上がった。「ひたすら念仏」と言われても、なかなか信じきれない。道長ら権力・財力のあるものは、自分の「極楽」行きを担保するため、「ひたすら念仏」だけではなく、この世に「極楽そっくりの豪華絢爛たる寺院」を建立した。道長は権力掌握のため非道・詐欺・恐喝を日常的に繰り返した。自分の地獄行きを避け極楽行きを担保するため、晩年・臨終間際は涙ぐましいというか、漫画的にもみえる行動をしたのである。道長は、はたして、極楽行きを確信できたのだろうか……。


 紫式部は、どうだろうか。繰り返しになりますが、『紫式部日記』『源氏物語』からは、「仏道でたぶん救われる。でも、確信に至らない。わからない」ということです。宮中を去ってから、おそらく、目立たない、ひっそりと読経生活をしたのではなかろうか。


 本筋の『無名草子』に戻ります。


『源氏物語』のさらっとした全体評論の次に各論に入ります。若い女房達の『源氏物語』に登場する女性への評価です。女性の名前のみ記しますが、『無名草子』本文には、あれこれ解説されています。


めでたき女は、桐壺の更衣、藤壺の宮。葵の上、明石。

いみじき女(善悪は関係なく印象的な女)は、朧月夜、朝顔、空蝉、宇治の大君、六条御息所。

好もしき女は、花散里、末摘花、六条御息所、斎宮女御(後の秋好中宮)、玉鬘。

末摘花(すえつむはな)に関して、一言。醜女であるが、源氏から放置されても、困窮生活になっても、ひたすら源氏を慕い続けた。その結果、源氏の妻のひとりとなった。『源氏物語』では異色の不美人であるが、詳細に述べられています。源氏の滅茶苦茶な女性遍歴のなかで、唯一、源氏の人道的側面を表しているように思います。


 源氏は、デタラメな不良生活をしていたにもかかわらず栄耀栄華の地位に就いたわけですが、末摘花の存在で、源氏にもいいとこがあるじゃないの、というわけです。さらに言えば、末摘花を見捨てなかった源氏だからこそ栄華を獲得できた、とも解釈できるのではないでしょうか。


 唐突ですが、私は、ゲーテのファウストを思い出します。ファウストと悪魔が契約をします。悪魔はあらゆる快楽をファウストに与えます。ファウストが、「この瞬間よ止まれ、汝はいかにも美しい」と口にしたら、ファウストの魂は悪魔のものになります。


 ファウストは若者に変身し快楽づけになります。魔女の祭典「ワルブルギスの夜」にも遊びます。そうしたなか、純情素朴な貧困娘・グレートヒェンと恋をします。貧困ゆえに「赤子殺し」の罪でグレートヒェンは牢獄の人となり、死にます。その後、ファウストはギリシャ神話の絶世の美女神ヘレナを追いかけ結婚します。現世に戻り、権力を握ります。自由な民のため海を埋め立て土地をつくろうとします。悪魔はファウストの墓を掘ります。


 ファウストは墓堀りの音と干拓工事の音を聞き違え、その幸福感のため「この瞬間よ止まれ、汝はいかにも美しい」とつぶやいてしまう。悪魔は、ファウストの魂を手にしたと思ったが、天上のグレートヒェンの祈りが勝ち、ファウストとグレートヒェンは天上で結ばれます。


 私には、グレートヒェン=末摘花に思えてなりません。


 本筋に戻って……、


 いとおしき女は、紫の上、夕顔、雲居雁(夕霧の妻、『無名草子』では、なぜか藤裏葉となっている)、宇治の中君、女三の宮(朱雀帝の三女)、浮舟。


 名前だけを記載しましたが、たとえば、浮舟について、「憎らしい女性」とか「宇治川に身を投げたのはかわいそう」とか「しっかりしている」と書いてあります。


(3)『無名草子』の「物語評論」(登場男性評価など)


 女性評価に比べ、男性評価の分量は当然わずかです。数人の男性評価がなされていますが、それは省略して、気になるのは、光源氏への評価です。


「源氏のことについては、よいわるいなどを評価するのも、今さららしく気がひけることなので、申すに及ばない」と言いながらも、悪評価の言葉が続々です。「(源氏は)本当にいやなお心です」「どう考えても本当に残念なお心です」「まったくよろしくないお心ですよ」「どっしりと落ち着いたお心がたりなくていらっしゃる」ということです。


 若い女房たちの光源氏への評価は、とても悪い。顔が光のようにハンサムで、かつ、お金があっても、心がとても悪い、と正確な評価を下しています。


 であるので、つまり、悪い心の男なのに、大出世したのは、変だなぁ~、と思ってしまうのです。そして、あれこれ深く考えてしまうのであります。


 前段に書きましたように、強引に、「末摘花救済=人道主義」「グレートヒェン=末摘花」を考える。


 あるいは、現実政治は光源氏のようなデタラメが横行しているではないか。藤原道長を見よ。道長は権力掌握のため非道・詐欺・恐喝を日常的に繰り返し、その結果が栄耀栄華である。紫式部は、遠回しに気がつかれないように、道長を批判しているのだ。


 あるいは、現実政治ではなく、社会のあり方を批判しているのだ。『竹取物語』とは「男の申し出を拒否できる女性」が主役です。少し前の時代の小野小町は求愛男性に「百夜通い」を要求した。つまりは、小野小町も「拒否できる女性」である。それが、今は何たることか。女性は拒否してもレイプされてしまう。親のいいなりじゃないか。周りは「拒否できない女性」ばかりじゃないか。情けない!なお、小野小町に関しては、「昔人の物語(49)」をご参照ください。


 と、まぁ、いろいろ飛躍・発展してしまいますので、この程度で。


 登場男性評価に続いて、「あわれなること」のシーンが登場します。王朝文化の基本理念のひとつは、「もののあわれ」です。気の毒だ、という意味ではありません。「しみじみと感動する」という意味が近いと思います。「あわれなること」の名シーンが十数ヵ所語られます。


 次は「いみじきこと」のシーンです。「いみじき」は「とても恐ろしい」「とてもすばらしい」の両方の意味を持っています。数か所の名シーンが紹介されています。


 次は「いとおしきこと」です。漢字で書けば「愛おしい」です。「かわいい」という意味で、やはり、数ヵ所の名シーンが紹介されています。


 次は「心やましきこと」です。不愉快なことの意味です。源氏の行動も2~3取り上げられています。


 次は「あさましきこと」です。驚きあきれることの意味です。4シーン紹介され、源氏の行動も1つあります。


 なお、『無名草子』には、『源氏物語』以外の物語の評論もあります。


『狭衣物語』(さごろも・ものがたり)、『夜の寝覚』、『みつの浜松』の3作品は、一部は散逸しています。評論は省略します。


『玉藻』『隠れ蓑』『今とりかへばや』『心高き』など19作品が紹介されていますが、現在は発見されていません。どうやら、和歌集に比べて物語は価値が低かったようです。


『伊勢物語』『大和物語』は、簡単に紹介されています。


『無名草子』の「歌集評論」の部分は、省略します。


(4)父・藤原為時


『無名草子』の紹介で、おおよそ紫式部の輪郭を述べたつもりですが、もう少し、輪郭をハッキリさせたいと思います。


 紫式部(973?~1031?)の誕生年は、970年説から978年説まで、いろいろです。没年に関しても、1014年説から1031年説までいろいろです。一応、(973?~1031?)と書きましたが、定説ではありません。「定説がない」のです。


 父は、藤原為時(949?~1029?)です。最高位階は「正五位下」ですから、中級貴族です。かなり、漢詩文の才があった。996年に越前国の国司に任じられた。実は、内定していたのは、小国・淡路国であったが、突然、大国・越前国の国司に任じられた。そのため、さまざまの風評が立ったが、宋商人が若狭に来たため、宋人との交渉のため漢詩文の才能がある藤原為時が急きょ選ばれたということらしい。中国語がペラペラかどうかはわかりませんが、少なくとも筆談は可能でした。


 このとき、紫式部も越前に同行し、約2年間、越前に滞在した。


 藤原為時を「下級貴族」と称している文章をたまに見かけますが、これは、「紫式部は下級貴族の娘」という錯覚をもたらします。貴族の上・中・下の区分は次のようになります。


上級貴族…… 一位・二位・三位 ……公卿

中級貴族…… 四位・五位    ……大夫

下級貴族…… 「正六位上」   ……士


 律令では、貴族とは五位以上をいうのですが、「正六位上」は貴族にとても近い、ということで「貴族扱い」となり、事実上、「下級貴族」と見なされました。「正六位上」よりも下の位階名はありますが、平安時代中期には有名無実となっていました。


 なお、大国・越前国の国司として受領したということは、下世話な話、滅茶儲けのポジションです。


 ともかくも、「紫式部は中級貴族の娘」で、どうやら、「上級貴族の娘よりも中級貴族の娘がいい女」という自負心を持っていたようです。「第2帖・帚木(ははきぎ)」の「雨夜の品定め」を読むと、そんなことが感じられます。


 余談ですが、『伊勢物語』では、在原業平と駆落ちした上級貴族の娘・藤原高子(二条后)は、深窓育ちのため、草の上にキラキラ輝く「露」(つゆ)さえ知らなかった。「露」を詠んだ和歌は非常に多いにもかかわらず、それを知らない。紫式部にしてみれば、上級貴族の娘は「バッカじゃなかろか」って感じを持っていたのではないでしょうか。藤原高子の和歌は『古今和歌集』に1首のみです。なお、藤原高子(二条后)に関しては、『昔人の物語(60)』をご参照ください。


 それから、紫式部の漢詩文の知識に関して若干述べます。父・藤原為時は漢詩文の学者で、息子の藤原惟規(974?~1011)に漢詩文を教えたが、なかなか暗記できない。その傍らで聞いていた紫式部(姉か妹か不明)は全部覚えてしまった。父親は「男だったらなぁ」と残念がった。IQ抜群の紫式部は、漢詩文の知識は相当なものでした。


 しかし、漢詩文の知識を露骨に表明することは紫式部にとって恥と認識していた。『紫式部日記』のなかの清少納言へのボロクソ批評は、漢詩文への見解と立場上の理由があります。まず、立場上の理由を。


 清少納言は皇后定子(977~1001)の女房で、紫式部は中宮彰子(988~1074、後に上東門院)の女房です。


 定子は、990年に、一条天皇(第66代、在位986~1011、生没980~1011)の女御・皇后になります。2人は、珍しいくらいのラブラブ関係であった。しかし、定子の実家が道長の陰謀によって凋落し、道長の天下となり、道長の長女・彰子が1000年に中宮となる。定子は皇后のままです。元来は、皇后=中宮ですが、「一帝二后」となった。定子は、いわば日陰の皇后となったが、一条と定子のラブラブ関係は、道長の陰湿な妨害にもかかわらず不変であった。しかし、1001年に定子は崩御した。その後は、一条と彰子は円滑な関係となった。


 紫式部の立場からすれば、定子の悪口は言えないが、それに仕える清少納言の悪口を言うことは、「私は彰子さまを大切にしています」という証である。もちろん、立場だけでなく、紫式部の内気、恥ずかしがり屋、目立ちたくない、という性格が基本にあります。内心では「清少納言は漢詩文の知識を見せびらかしているが、あんなのは低レベルよ。私の方がズッと高レベルよ。女が漢詩文の知識を見せびらかすのは、恥ずかしいことなの」という感覚を強く持っていたのでしょう。どうやら、「男は漢字、女は仮名」と強烈に意識することが、女の独自性の強調で、女が漢字を見せびらかすのは男への従属と思っていたのではないでしょうか。


(5)夫・藤原宣孝


 紫式部は、998年頃、藤原宣孝(のぶたか、?~1001)と結婚した。藤原宣孝は、紫式部が越前へ行く前から求婚していて、帰京を待って結婚した。官位は「正五位下」なので、父と同じだが、約20歳の年上であった。宣孝の4番目の妻である。そして、娘の「大弐三位」(だいにのさんみ、?999~?1082)が生まれた。藤原宣孝は1001年に、感染症大流行で病死します。結婚生活は、わずか3年でした。


 紫式部は初婚だったのか。


 あの時代は、今の感覚からすればフリーセックスOKですから、他に男がいても不思議ではありません。仮説のひとつに、紀時文(922?~996?)と結婚して、後家になってから、藤原宣孝と再婚した、という説もあります。


 一番の関心事は、藤原道長との関係です。『紫式部日記』には、彰子の女房として宮中にいたとき、道長が紫式部の局へ来たが、適当にあしらった、ことが書いてあります。野次馬は、1回ぐらいは関係したかも……と思ったりしますが、藤原宣孝が死亡してからの紫式部の快楽は、『源氏物語』のストーリーを考え、書いているときが最高なのです。紫式部にとって、現実の性的快楽よりも空想の快楽のほうが数十倍も大きいと推理します。


 したがって、藤原宣孝以外の男は、紫式部にとって、取るに足らない存在に過ぎません。ただし、道長はスポンサーとして必要でした。当時は、紙は貴重品で、書写する人手も大勢必要でした。『源氏物語』は54帖もあり、それを数十も揃えるとなると、現代感覚からすれば数億円の経費が必要です。原稿料が入るわけではないので、スポンサーが必要でした。


 1001年4月25日、夫・藤原宣孝が亡くなった。そのとき、紫式部が詠んだ和歌が『紫式部集』に載っています。未亡人が「寂しいな」と亡き夫を思い浮かべる歌です。


『紫式部集』には、126首が掲載され、その48番目の和歌です。


 詞書(ことばがき)は、「世の中のはかなき事を嘆くころ、陸奥に名ある所々を書きたる絵を見侍りて」です。


  見し人の 煙となりし 夕べより 名ぞ睦ましき 塩釜の浦

(訳)塩釜は海藻を焼いて塩を取る所で有名。絵には、煙が書いてあるのだろう。見なれた人が火葬の煙となった夕べから、塩釜の名前が親しく感じられます。


 ついでながら、1002年2月7日に、国母の東三条院詮子が崩御した。そのときの和歌が41番にあります。詞書・和歌は省略しますが、その意味は「国母が崩御して国中が喪に服しているときに、どうして私ごときが、夫の死を悲しんで泣いておられましょうか」というものです。


『紫式部集』から、紫式部はズッと夫の死を悲しんでいたことがわかります。年上の夫、後妻ですが、夫を愛していたことが推測されます。


 なお、紫式部は詠んだ和歌は『紫式部集』の126首だけではありません。『紫式部日記』には18首、『源氏物語』には約800首、『新古今和歌集』にも14首の和歌があります。紫式部は『源氏物語』という長編作家だけでなく、歌人としての才能も秀でており、中古36歌仙、女房36歌仙、小倉百人一首にも選ばれています。小倉百人一首の歌は、『紫式部集』の最初に登場する歌で、古い友人にあてたものです。


 めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな

(訳)久しぶりに めぐり合ったのに、見たと思ったら、あなたと分からないまま、すぐに帰られてしまった。雲に隠れた夜半の月のようですね。


(6)宮仕えの期間


 999年、彰子(12歳)、入内。

 1001年、定子崩御。

 1001年、夫・藤原宣孝が感染症で亡くなる。

 1002年、藤原詮子崩御。

 

 ハッキリしませんが、夫・藤原宣孝の死後、『源氏物語』を書き始めました。


 中宮彰子に仕える前に、道長(966~1028)の正妻である源倫子(964~1053)に仕えたことがあると推理されています。

 

 紫式部の中宮彰子への宮仕え期間は、1006年もしくは1007年から始まり、1012年もしくは1014頃までと推測されています。紫式部の女房期間は、10年に満ちません。要するに、宮仕えは、あまり好きではなかったのでしょう。


 その間の1011年に一条天皇が崩御しています。彰子(988~1074は皇太后になります。彰子について一言だけ。父・道長が、一条天皇を粗略に扱うことに彰子は怒っていた。紫式部は彰子の家庭教師の役割を果たしていたので、その影響かもしれません。


『紫式部日記』の日記部分は、1008年秋~1010年正月です。


 1017年に、紫式部の娘・大弐三位が皇太后彰子の女房として出仕した。内向きの母と違って、男性関係はそこそこ積極的でありました。和歌の才能もあり、女房36歌仙のひとりであり、『小倉百人一首』にも選ばれています。

 

 紫式部の死亡年は、1014年説から1031年説まで、いろいろです。


 1028年、藤原道長死去。

 1029年(推定)、父・藤原為時死去。

 1074年、上東門院彰子崩御。


 紫式部の生没、宮仕えの期間、および『源氏物語』執筆の時期は、多くの説があります。


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 太田哲二(おおたてつじ)  

 中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。