(1)歌麿美女は皆似ている
喜多川歌麿(1753~1806)は、浮世絵師で女絵のナンバー1である。歌麿の描いた女絵を眺めていれば、なんとなく歌麿がわかったような気分になる。気分はともかくとして、私には、歌麿の美女の顔が、どれもこれも同じように見えてしまった。
「江戸高名美人 木挽町新やしき 小伊勢屋おちうゑ(水茶屋娘)」
「当時三美人 富本豊ひな(芸者)、難波屋きた(水茶屋娘)、高しまひさ(水茶屋娘)」
「当時全盛美女揃 越前屋内唐士 あやの をりの(吉原遊女)」
などを見ていると、みんな同じように見えてしまう。
そんなことを話していたら、「猫に無関心の人は、みな同じ猫の顔に見えて区別がつかない」「アイドルグループで誰が誰だかわからないのは、アイドルに関心がなくなってしまった証拠」と解説してくれた。
それで、再度、歌麿の女絵をじっくり見ました。すると、そこそこ違いがわかるだけでなく、なにやら彼女たちの気持ちが感じられるのでした。絵画を鑑賞するには、自分の感性を研ぎ澄ますことが大切ということを、改めて知った次第です。さりながら、やはり歌麿美女はみな似た顔だなぁ~。
少々理屈を述べると、日本のフィクションの人物絵は「同一の顔」「無表情」が原則です。『源氏物語絵巻』の登場人物は、皆「引目鉤鼻」(ひきめ・かぎはな)で口は極端に小さく、無表情である。あるいは能面は、若い女性ならば「小面」(こおもて)と決まっている。つまり、日本では、フィクションの登場人物は「同一の顔」「無表情」が原則で、それを見る人が自分本位に自由にイメージを膨らませることが重要と考えているのである。
歌麿が描いた女性は、実在したが、絵に描く段階で「実在→フィクション」に転換してしまうのだろう。それに、小さなスペースでは、個性ある表情を描き出すことは困難だ。歌麿の革新的な点は、「大首絵」、すなわち顔をアップすることによって、「同一の顔「無表情」に若干の表情を付加することに成功したのである。
(2)第1期は修行・模索時代
どうやら歌麿を理解するには、4期に分けて考えるのが便利です。
第1期は1781年(天明1年)頃まで、年齢30歳頃まで、作品はあるものの、一言で言えば、修行・模索時期である
生年月日は不明ですが、推定では1753年(宝暦3年)前後らしい。出生地は江戸、川越、京都、その他いろいろあるようです。子供の頃、昆虫が大好きだったようだ。まぁ、誰でも子供の頃は昆虫が大好きで、保育園では保育士さんが「だんご虫ポーズ」と一声かければ、みんな喜んで、かがんで両手で両足をつかんで、丸いポーズをとる。ことさらに、歌麿幼少期は昆虫が大好き、昆虫観察が大好きと言うのは、大人になってから、昆虫の絵を精巧に描いたからです。
何歳の時かわからないが、狩野派の町絵師・鳥山石燕(とりやま・せきえん、1712~1788)に入門した。鳥山石燕の弟子は多く、歌麿以外にも恋川春町、栄松斎長喜、歌川豊春などを育てた。
参考までに、
鳥山石燕の代表作は妖怪画集『画図百鬼夜行』である。
恋川春町(1744~1789)の代表作は『金々先生栄花夢』で、これは黄表紙というジャンルの出発点である。
栄松斎長喜(えいしょうさい・ちょうき、生没年不詳)は、浮世絵師であるが、「浮世絵版画」だけでなく、「肉筆浮世絵」でも優れた作品を残した。「浮世絵版画」のなかでも、多色の木版画を「錦絵」という。「肉筆浮世絵」とは、屏風・掛け軸などに描くもので、要するに一点ものである。一点ものは、有力者・富裕者が依頼するので、絵師にとってはドル箱となった。
歌川豊春(1735~1814)の門下は、歌川派を形成し、一大勢力となった。
喜多川歌麿は、鳥山石燕の弟子としてスタートしたが、北尾重政(1739~1820)は若き歌麿を弟子同然に指導した。安永(1772~1781)・天明(1781~1789)の時期、美人画を中心とする浮世絵界は、北尾重政と歌川豊春が双璧であった。
1770年代、歌麿20歳代の作品が残っているから、絵師としてぼちぼち売り出していた。
1775年、恋川春町の『金々先生栄花夢』が大ヒットし、「黄表紙」の時代が到来した。それまでの草双紙(大衆本)は、童話・伝説・敵討・怪談などの絵に、絵解き文章を添える程度の幼稚なものであったが、『金々先生栄花夢』は創作小説と絵画を五分五分に合体させた大人向け草双紙であった。
出版界では、蔦屋重三郎(1750~1797)は、まだ大手出版社・鱗形屋(うろこがたや)の系列小売店であったが、1776年の鱗形屋の経営ミスによって、バタバタしているスキをついて一挙に頭角を現した。
喜多川歌麿と蔦屋重三郎の出会いは、いかなるものかは推測の域でしかないが、劇的・運命的出会いを創作するのは簡単だ。基本は、大開花寸前の歌麿の才能を見抜いた蔦屋の眼力であるが、それだけじゃ面白くない。やはり、美女と狂歌を絡めて、あれやこれや……。
(3)第2期、歌麿と名乗る
第2期は、1781年(天明1年)頃から1792年(寛政4年)頃まで。「超一流」ではないが、浮世絵師として、「一流」として活躍した。
「歌麿」と名乗ったのも、彼の決意表明である。歌麿の作品は、ほとんど蔦屋からである。蔦屋重三郎の後援があったからこそ、歌麿は活躍できたとも言える。
歌麿が女絵の「超一流」と目されるのは、美女の顔をアップした「大首絵」である(第3期)。当時の女絵は全身を描くものであった。第2期は、まだ「大首絵」は登場していない。細かいことを言えば、「大首絵」の前史というか、ちらほら「大首絵」は描かれていたが、あくまでも「ちらほら」で脚光を浴びるレベルではなかった。繰り返し言いますが、第2期の歌麿の絵は、スラリとした八頭身美女の全身画である。
なお、無視されがちですが、歌麿は「春画」も沢山描いています。「春画」に関しては、現代でも刑法175条によって微妙な状況で、2015年(平成27年)には、「春画展」とそれに関係する複数の週刊誌が警視庁とゴタゴタがありました。あるいは、東京都青少年条例でも規制されています。そのため、歌麿の女絵の本を見ても、歌麿の春画はせいぜい1点ぐらいしか掲載されていません。出版社にすれば、回収の危険は自主的に回避するのでしょう。
第2期の歌麿の女絵の説明は省略して、歌麿は女絵だけじゃないよ、虫・鳥・貝の絵もスゴイよ、ということについて。
「天明」は、1781年4月から1789年(天明9年)2月までである。「天明」の前は「安永」で、「天明」の次は「寛政」である。1770年頃から、狂歌が流行り始めた。そして、「天明狂歌」の大爆発となった。狂歌ナンバー1は大田南畝(なんぽ、狂歌名・四方赤良、大田蜀山人、1749~1823)で、蔦屋重三郎は得意の吉原作戦で大田南畝とは密着関係である。なお、狂歌名・「四方赤良」(よものあから、最初は四方赤人)の意味は、当時、日本橋で売られている「四方の赤味噌」が評判だったこと、そして味噌から糞を連想するのが気に入ったのだろう。
歌麿の第2期前半は、もっぱら女絵であったが、第2期後半は、蔦屋重三郎は狂歌大ブームをとりこんで「狂歌+絵画」という絵入狂歌本を企画して発売した。歌麿の絵入狂歌本のなかでも、次の3作は歌麿三部作と言われ特筆すべきものである。
天明8年(1788)の『画本虫撰』(えほん・むし・えらみ) ……30種類の虫、狂歌撰者は宿屋飯盛(やどやのめしもり)。
寛政2年(1790)『百千鳥狂歌合』(ももちどり・きょうか・あわせ)……30種の鳥、狂歌撰者は赤松金鶏(あかまつ・きんけい)。
寛政1年(1789)『潮干のつと』……36種の貝――「潮干のつと」とは「潮干狩りのみやげ」という意味。狂歌撰者は朱楽菅江(あけらかんこう)。
絵入狂歌本の題名だけでは不親切なので、『画本虫撰』の最初ページを説明します、見開き1~2ページに、蜂と毛虫が描かれています。むろん歌麿の絵です。それはカラーで緻密な絵画で、そのまま現代昆虫図鑑に採用できます。絵画に関しては、パソコン・スマホで、本の題名で検索すれば容易に見られます。そして、蜂と毛虫に関する狂歌が記載されています。『画本虫撰』の狂歌選定者は、狂歌名・宿屋飯盛(やどやのめしもり)で、本名は糠屋七兵衛(ぬかや・しちべえ、1754~1830)。国学者であり、国学では石川雅望(まさもち)と称した。狂歌は、大田南畝(四方赤良)から学び、天明末期には、狂歌四天王のひとりとなった。
『画本虫撰』の狂歌選定方針は、「虫+恋」である。「恋」は恋でも「和歌の恋」ではなく「狂歌の恋」であるから、「ニヤニヤ笑う恋」「スケベな恋」である。
蜂 尾焼猿人
こはごはに とる蜂のすの あなにえや うましをとめを みつのあぢはひ
(解説)狂歌名・尾焼猿人(しりやけのさるんど)の本名は酒井抱一。姫路藩主の弟で、俳人で名を成した。
「あなにえや」は「あぁ、すばらしい」の意味。『日本書紀』で、イザナギがイザナミを口説く言葉(その後にセックス)が「あなにえや おとめを」である。「あな」は「蜂の巣のあな」であり、女性の「あな」でもあり、スケベ丸出しの狂歌である。しかし、『日本書紀』『古事記』の日本最初の口説き台詞である。『画本虫撰』の最初の狂歌に、『日本書紀』を持ってきて、教養をみせつけているのである。
毛虫 四方赤良
毛をふいて きずやもとめん さしつけて きみがあたりに はひかかりなば
(解説)狂歌名・四方赤良は、大田南畝である。繰り返しますが、大田南畝(蜀山人)は狂歌ナンバーワン人物である。
『韓非子』の大体編にある諺は「毛を吹いて傷を求めず」です。髪の毛を息で吹いて小さな傷を探したり、垢を洗い落してわかりにくいものを調べたりしない。ささいな人の欠点を、しつこく暴こうとしない。ということです。『韓非子』は中国戦国時代の諸子百家の法家で、組織運営の秘訣が語られている。四方赤良も『韓非子』の諺で、教養を見せつけている。
「求めず」を「求めん」に変えてあります。
「毛を吹いて傷をもとめん」と、さしつけて(あからさまに)、君の辺りに、這(は)って、まとわりつくのか。
次の3~4ページは、「馬追虫」と「むかで」である。狂歌は、繰り返し述べますが、「虫+恋」である。そして、『画本虫撰』は、全体で、30種の虫の絵画と狂歌となっている。
『百千鳥狂歌合』も同じで、鳥の絵画と「鳥+恋」の狂歌である。
『潮干のつと』も同じで、貝の絵画と「貝+恋」の狂歌である。
まぁ、狂歌のほうは、恋、恋、恋、スケベ恋、エロエロ恋のパレードである。江戸市民はニタニタしながら絵入狂歌本を読んだのだが、その絵画にも感動した。我々には図鑑・写真のない時代の人が、本物そっくりの絵に遭遇して、どんな感動を受けたのかは想像するしかない。
ここで、時代背景に触れておきます。
先に、第2期は、1781年(天明1年)頃から1792年(寛政4年)頃と書いた。
田沼意次(1719~1788)が実権を握った「田沼時代」は、側用人に就任した1767年(明和4年)から、失脚した1786年(天明6年)までが一般的です。田沼時代は天災・疫病が頻発し、大混乱・大不況の時代である。とりわけ、1783年(天明3年)の浅間山の大噴火、1782年(天明2年)から1788年(天明8年)の天明の大飢饉は、各地に地獄をもたらし、全国で約100万人の人口減をもたらした。
田沼意次もあれこれ対策を講じたが、どうにもならなかった。上から下まで、世直し改革の熱気が渦巻き、1786年8月に田沼意次は老中を辞職した。さらに、1787年(天明7年)5月に江戸での「天明の打ちこわし」と言われる大暴動が勃発し、田沼派高級人材は解任され、松平定信が老中となり、寛政の改革(1787~1793)となった。
なんとなく、田沼は賄賂汚職ばかりで、しっかりした不況経済対策をしなかったという先入観が強いが、これは松平定信の「反田沼PR」の効果である。田沼と松平の不況経済対策は、さほどの差異はない。違ったのは、松平定信は、質素倹約・遊興享楽の取り締まりを強化したことである。儒教(朱子学)では、質素倹約は絶対善、遊興享楽は絶対悪なのである。
1787年6月、松平定信は老中に就任するや、7月に文武奨励令を出し、寛政の改革が始まった。蔦屋重三郎ら出版界は、遊興享楽の女絵を自粛した。そこで、虫・鳥・貝なら大丈夫と判断したのだろう。自粛していたが、出版弾圧は強化され、1790年歌麿の絵入狂歌本は刊行休止した。狂歌そのものが、ケシカランという雰囲気も濃厚になりつつあったのだ。狂歌はスケベ歌だけでなく、社会・政治風刺も多くあるからだ。そのため、狂歌のオーソリティ大田南畝(四方赤良)は1790年(寛政2年)頃から狂歌から遠ざかってしまう。
1791年(寛政3年)、山東京伝(1761~1816)の洒落本(遊郭・花街の本)3部作が問題化し、山東京伝が手鎖50日、版元の蔦屋重三郎は財産半分没収となった。
つまり、歌麿にとって、女絵もダメ、絵入狂歌本もダメ、さらには版元の蔦屋重三郎が処分を受ける。よって、歌麿の出番なし、となりました。
参考までに、「昔人の物語(23)蔦屋重三郎」「昔人の物語(48)山東京伝」「昔人の物語(85)大田南畝(蜀山人)」「昔人の物語(127)東洲斎写楽」をご覧ください。
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(4)歌麿第3期で「大首絵」登場
第3期は、1792年(寛政4年)頃から1800年(寛政12年)で、歌麿の絶頂期となった。
世の中、「ピンチはチャンス」も、あるにはあるようだ。
1793年(寛政5年)、歌麿・蔦屋コンビは、美人全身絵を続々と発表した。奉行所とどう折り合いをつけたのかわからないが、たぶん、「女性のセクシーポーズや恋ではなく、女性の日常生活を描いた」とかなんとか説明して、OKされたのだろう。役所は、芸術の価値ではなく、論理的な理屈が重要なのだ。第2期に比べ、歌麿の絵は格段に進化していた。
それよりも、それよりも、決定的なことは、「美人大首絵」を発表したことだ。「セクシーでも恋でもなく、単なる似顔絵ですよ。顔しか描いてありません」という理屈なのだろう。儀礼的な手土産もたっぷり渡したことでしょう。
『婦人相学十躰』(ふじんそうがく・じったい)『婦女人相十品』(ふじょにんそう・じっぽん)など、連続大ヒットした。現代でも、タレントの全身写真よりも顔アップの写真のほうが売れているのではなかろうか。かくして、歌麿は浮世絵師の人気ナンバー1となった。
蛇足ながら、歌麿が発端の水茶屋美女ブームが発生した。歌麿が描いた女性は、絶大な人気を博した。現代なら、「素人アイドル」大ブームである。ブームが過熱したので、幕府は水茶屋娘など素人評判女性の名前を錦絵に記すことを禁止した。それだけ、歌麿の女絵は影響力をもったのです。
素人は邪推します。歌麿の周りは美女だらけ、歌麿に描いてもらえば人気抜群間違いなし。魚心あれば水心、歌麿と美女の関係は、いかに? その答えは、本稿の最後の行です。
蔦屋は「美人大首絵」の大ヒットに次いで、写楽と組んで「役者大首絵」を売り出した。衝撃を与えたが、販売成績は低かった。歌麿の「美人大首絵」は、美女の微妙な表情が感じ取れるということで、「あくまでも美女」である。ところが、写楽の「役者大首絵」は役者の心の中まで察知できるが、「変な役者顔」なのである。役者ファンが買うわけがない。ベタ褒めするのは本居宣長ら超インテリだけというわけだ。
なお、1793年(寛政5年)に松平定信は、将軍徳川家斉と対立して、老中失脚となり、寛政の改革は終わった。ただし、出版統制は継続された。
(5)歌麿第4期は濫作
第4期は、1801年(享和元年)~1806年(文化3年)まで。歌麿は、誕生年が曖昧なので、おおよそ50歳で逝去したということになる。
この時期は、人気なるがゆえに注文がどっさりで、それをこなすため濫作(らんさく)となったようだ。歌麿の最大の理解者である蔦屋重三郎は1797年に、かっけ(ビタミンB不足)で亡くなっていた。彼が生きていれば、濫作・レベル低下ということはなかったと思う。もっとも、なかにはしっかりした作品もある。
それから、松平定信が失脚しても、出版統制は継続していた。1804年(文化1年)、『絵本太閤記』に関連した錦絵を描いた罪で、手鎖50日の刑を受ける。歌麿も含め出版関係者は、出版統制を逃れるため、鎌倉時代の話にしたり、幽霊や怪物を登場させたりして現実話ではないと強調するなど、用心に用心を重ねて出版していた。ところが、『絵本太閤記』はメチャ売れしたこと、登場人物のひとりの子孫がたまたま寺社奉行であって、先祖が外様大名であったことが世間に流布されてはマズイと思ったらしく、その結果、処罰になった、ということらしい。
その後、病となり逝去した。歌麿の死に水をとったのは、水茶屋娘・三河の出のたか、となっています。
太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。最新刊『やっとわかった!「年金+給与」の賢いもらい方』(中央経済社)が好評発売中。