今は昔の昭和32年(1957年)、筆者が高校生になった年の話です。

 アメリカの進化生物学者ジョージ・ウイリアムスは、何のことだかさっぱり分からない抽象論を論文に書いて発表しました。簡単に言えば、「若いうちは役に立っている遺伝子でも、年とともに変化して手に負えない厄介物になる(拮抗的多面発現」という、当時の学会では珍説とも言うべきものでした。今の世の中なら、新型コロナで高齢者が重症化し易いとか、そういう話はあっても良さそうだと思うのですが、当時の平均寿命は今の後期高齢者に達していなかったので、「そんな馬鹿な」と思われても仕方なかったのです。しかしウイリアムスは見抜いていました。平均寿命65歳の時代に、「昨日まで元気だったのに」と惜しまれて死んでいった人々の時代は、間もなく終わりを遂げたのです。ちなみに珍説発表の僅か15年後、有吉佐和子の問題作「恍惚の人」が映画化されて、今なら断トツの流行語大賞に間違いありません。



 遺伝子を知らなくてもウイルアムスの「拮抗的多面発現」がどんなものか、想像できる例え話を作ってみました。『若い夫婦はお互いの良い面も悪い面も「全部好きです愛してます」の言葉で包み込んで、幸せな結婚をしたと信じています。ウイリアムスの珍説で言えば、拮抗的多面発現を互いに認め合って平和に暮しているのです。しかし・・・(中略)・・・人生も半ばを過ぎる頃、互いの良い面の影は薄れて、悪い面が目立ってくるのです。』これは現代社会でよく見られる人間模様で、ウイリアムスの拮抗的多面発現の典型例ではないでしょうか。


●加齢とともに拮抗的多面発現するタンパク質が発見された。

 ウイリアムスの論文発表から半世紀を過ぎて、生命科学が格段に進歩して、「拮抗的多面発現」の実体が解ってきました。ごく最近のニュースで、筆者にとってもビックリポンの話なので、そのタンパク質とコーヒーの関係について考察してみました。でもそれを書く前に、先ずは老化の科学の歴史をまとめておきます。出典は英語のネットブログで、霊長類の項目が主で、「コーヒーが寿命を延ばす」も抜けているので、赤枠内をざっと眺める程度でご覧ください。



●ウイリアムスの拮抗的多元発現が観察された遺伝子とは?

 このブログにも度々登場した転写因子(AhR:第225話;Nrf2:第444話;NFkB:第458話)は細胞質に存在していますが、刺激を受けて活性化すると核に入って、遺伝子の幅広い領域を刺激して、複数のタンパク質を誘導し、その総和が効果となって現れる・・・というものです。コーヒーの疫学研究が示した病気予防効果には、そういう複数の転写因子の働きの更なる総和と思えるのです。

 疫学研究によれば、「野菜食は大腸癌リスクを下げるが、焼肉の食べ過ぎは高める」となっています。野菜食がリスクを下げるメカニズムには、ポリフェノール説、善玉腸内菌説など色々ありますが、学会が認めるほどに確定した説はありません。今年8月、東フィンランド大学医学部の神経科学者アンテロ・サルミネン教授は、加齢に伴って作用の良し悪しが逆転する転写因子として、多環芳香族化合物受容体(AhR)に辿り着きました(詳しくは → こちら)。

 年をとると遺伝子DNAが若い頃のものとは違ってきます。最もよく調べられているのは“エピゲノミクス:Epigenomics”と呼ばれる現象で、遺伝暗号の配列が変わらずに、タンパク質を作る働きだけが変化するのです。典型的な変化は遺伝子DNAのメチル化による不活化で、これにもコーヒーが係わっています。もう1つ注目すべきは、遺伝子DNAの暗号配列に起こる変異です。DNAのたった一組の塩基対が変異して起こるSNP(一塩基多型)は、病気リスクとの関係で精力的に研究されました。そしてこの両方が高齢マウスで増えていることが解ってきたのです。2020年の東京大学プレスリリースをネットで読むことができます(詳しくは → こちら)。


●サルミネン教授が指摘した、加齢によるAhR受容体の変化とは、遺伝子AHRに起こっているSNP変異のことである。

 煙草の煙に多く含まれ、焼けた肉にも入っている代表的な多環芳香族化合物ベンゾピレンは強力な発癌物質です。そこに注目して、79人の大腸癌患者の遺伝子を解析したところ、27%の患者に一塩基多型rs2066853が検出されました。また、別の論文を見ると、同じ多型で受容体AhRが少ない患者ほど、症状が重症となる傾向が強いとのことです(詳しくは → こちら)。

 図1をご覧ください。中段にAhRの加齢変化が描いてあります。若いうちはカフェインの他、環境発癌物質などの異物排除にも大いに貢献する転写因子ですが、年をとると一塩基多型が起こって量が減ってしまいます。そうなると発癌のリスクが高まるということになるのです。

 ところでAhRとは、発見の当初はベンゾピレンのような多環芳香族化合物に特有の受容体と考えられていたのですが、研究が進むにつれて他にも種々の異物の受容体であることが解ってきました。例えばカフェインと結合すると、「AhR-カフェイン」の複合体が核に入って、カフェインを代謝する酵素CYP1A1とCYP1A2を作ります。CYP酵素とは薬物代謝酵素と呼ばれているもので、実に多くの薬物分子が、ある特定のCYP酵素で代謝されることが解っています。

 このようにAhRは薬を含めて多くの環境物質(まとめて異物)を処理しますが、年をとると働きが鈍って、排除できない異物/薬物が増えてくるのです。図の右向き矢印の色が変わっているのは、AhRが善玉から悪玉(少なくとも善玉ではない)に変わることを表わしています。



●図1でもう1つ大事なのは、上段の転写因子Nrf2と下段の転写因子NFkBの存在である。

 Nrf2は複数の抗炎症性タンパク質を作りますし、NFkBは病原微生物に対して免疫応答を誘導する複数のタンパク質を作ります。これらをAhRと併せれば、図1はコーヒー成分が関係する「転写因子の3つ揃え」とも言える画になるのです。このブログにも何回も登場したNrf2とNFkBは、どちらもAhRとクロストークしています。そして3つとも加齢に伴って一塩基多型が出現して、それぞれが持つ複数の生理学的役割が次第に削られて細くなってしまうのです。

 さらにこれら3つの転写因子はコーヒー成分の作用標的にもなっています(図1)。それぞれがクロストークする間に、コーヒー成分は3つの転写因子のバランスをとるかのように作用して、慢性炎症を抑制し、異物を処理して、疾患の重症化を予防し、死亡リスクを下げるのです。ですから図1は、3つの転写因子の拮抗的多面発現とコーヒー成分の関係を示す初の概念図と言えるものです。


●肉の焼け焦げを食べると多環芳香族ペンゾピレンが摂り込まれて発癌する。

 3つの転写因子とコーヒー成分の関係を具体的に説明するため、ベンゾピレンの発癌性を図2に描きました。

 タバコの煙や焼肉に多く含まれるベンゾピレンは、食べると吸収されて発癌リスクを高めます。ベンゾピレンに似た多環芳香族には共通の受容体AhRがあって、ベンゾピレンも結合します。それが遺伝子に作用して薬物代謝酵素CYP1A1を誘導するのです。そしてこの酵素がベンゾピレンをエポキシドという酸化物に変えるのです。次に、この酸化物が遺伝子DNAにくっつくと、あっという間に発癌し、しかもここにNFkBがあると、発癌リスクが更に高まってしまいます。

 不思議なことに、コーヒー成分のトリゴネリンやポリフェノールは、NFkBの発癌性を弱める方向に作用します。動物実験では、両方を同時に摂ることで、つまりコーヒーとして飲むと、その効果が相乗的に強まることが解っています。



 一方、エポキシドの発癌性を完全に消すメカニズムの存在は魅力的です。ここで作用するのがNrf2で、エポキシドの酸化力に刺激されて、グルタチオン-S-転移酵素(GST)という毒消し酵素を誘導するのです。本来Nrf2を活性化する分子はミトコンドリアでできる活性酸素です。エポキシドの酸素原子が活性酸素に匹敵するNrf2刺激因子だからです。その他にも、コーヒーのポリフェノールが、活性酸素とは異なるメカニズムでNrf2を活性化することも解っています。

次に、こうして誘導されたGSTがエポキシドと反応すると、水によく溶けるグルタチオン抱合体に変わります。こうなると直ぐに尿に排泄されて、身体は癌にならずに済む・・・という訳です。


●まとめです。

 図1のように、身体に3つの転写因子があって、それぞれの働きが年をとって変化しても、お互いの連関が上手く行っていれば老化が遅くなり、逆に連関が崩れるような変異が起こると老化が速まる・・・というようなことが起こっています。そこにコーヒーの成分があると、3つの連関が健康状態を保つように働いて、その結果、老化の速度が遅くなるのです。このメカニズムの信憑性が多少足りないとしても、世界の疫学研究データを比べてみると、人種、文化、食べ物の差を乗り越えて、「コーヒーは全死亡リスクを下げる」ことの信憑性は間違いないものとして、世界の学術誌が認めているのです。

 如何でしたか? 是非美味しいコーヒーを飲みましょう。きっと将来になって「コーヒーを好きで良かった」と納得する日が来るに間違いありませんから。

(第481話 完)