慶大で研究した早大生


 北口氏は71年、東京都世田谷区で奈良県東京事務所に勤務する同県職員だった父と理容師の母との間の長男として生まれた。2歳上の姉がいる。翌年、奈良県へ戻った。市立の小中学校を経て県立奈良高校へ進んだ。中学では軟式テニス部、高校では近畿大会を何度も制する強豪だった弓道部に所属した。


 思いついたことを思ったとおりにやりたい性格で、サラリーマンや医療従事者になる自分を想像できず、研究者になりたいと思って90年、早稲田大学理工学部応用化学科へ進学した。


 4年生からの卒業研究は、医療工学を専門とする酒井清孝教授の研究室に配属された。生物系のテーマに取り組みたいと希望を述べたところ、慶應義塾大学医学部血液内科の池田康夫教授を紹介され、外研生として池田ラボへ通うことになった。村田満助手(現・教授)の指導を受けて、人工血小板の開発に取り組んだ。村田氏に誘われて、修士課程から慶大医学研究科へ進学した。修士課程2年間に得たデータで、筆頭著者として論文5報を量産した。


 医師ではないのに臨床系の教室に所属することで中途半端な研究者となることを心配した池田氏が、大学医学部バスケットボール部の1年後輩だった御子柴克彦・東京大学医科学研究所教授を紹介してくれて97年、博士課程から移った。日本学術振興会の特別研究員にも採用された。


 当時の御子柴氏は、ERATO「御子柴細胞制御プロジェクト」の総括責任者を務めており、ラボを4ヵ所に持っていた。北口氏は港区白金台に数カ月、つくば市の理化学研究所に約2年、和光市の理研にも約2年と、そのうち3ヵ所を渡り歩いた。有賀純・理研研究員(現・長崎大学教授)に指導を受けて、神経発生の転写因子として同定されたZicの機能解析から研究を始めたところ、それまで知られていた体軸形成の背腹軸だけでなく左右軸にも関係しているようだとの論文が出てきたため、それをカエルに遺伝子操作して実証、00年の『Development』誌で発表すると共に、01年にはそのテーマで博士号を取得した。


 学位取得後も神経機能の研究を続けたいと考え、自分で留学先を探して米NIH国立神経疾患・脳卒中研究所のケントン・J・シュウォルツ上級研究員のラボにポスドクとして受け入れてもらった。電位依存性カリウムチャネルの研究に4年間取り組み、04年の『Journal of General Physiology』誌や05年の『Biochemistry』誌で報告した。


 そこから独マックスプランク分子生理学研究所のキリル・アレクサンドルフ・グループリーダー(現・豪クイーンズランド工科大学教授)のラボに1年在籍、JREC-INで見つけた京都大学医学研究科の川原敦雄・先端領域融合医学研究機構助教授(現・山梨大学教授)の研究室に助手として採用されて、06年に帰国した。ゼブラフィッシュに蛍光タンパク質の遺伝子を導入して、血液発生の転写制御機構を解析、その成果は09年になってから『Mechanisms of Development』誌で報告している。


 帰国翌年の07年、御子柴ラボの先輩で前年からERATO「宮脇生命時空間情報プロジェクト」の研究総括を務めていた宮脇敦史・理研脳科学総合研究センターチームリーダーのラボへ、5年任期の研究員として異動した。再びゼブラフィッシュを使い、標的の遺伝子操作と蛍光タンパク質の遺伝子導入を組み合わせた研究に取り組んだ。07年度と10年度の2回、科研費の若手研究(B)に採択されている。このときのデータは13年になってから『Biochemical Journal』誌で発表した。