初対面で直談判して留学


 西川氏は68年、京都府福知山市に郵便局員の父と団体職員の母との間の長男として生まれた。4歳上に姉がいる。小学生から中学生まで母や姉と一緒にクラシックギターを習った。小学校のときは地域の少年野球チーム、中学校では軟式テニス部に入り、将来の夢はガラス職人だった。


 市立小中学校を経て府立福知山高校へ進学、今度はスキー部に入ったが、スキーをせず陸上を走ってばかりいたら3年に上がるときクビになり、ギター部に入り直した。化学が好きで、大学は工学部か薬学部へ進みたいと思った。


 86年、京都大学薬学部へ入学。3年時にDDSの講義をしてくれた瀨﨑仁教授の薬剤学講座へ4年生から入った。後に厚労省薬事食品衛生審議会会長となる橋田充氏が助教授、同じく日本薬学会会頭となる髙倉喜信氏が助手という名門講座に入ったのに、富士山の見える風光明媚な気候のいい場所に家を建てるため4年で卒業して就職したいと思っていた。それを配属早々に言ったら、先輩から修士課程くらいは出るものだと諭され、そんなものだろうか、と従うことにした。


 橋田氏や髙倉氏が、多糖類デキストランをキャリアに抗がん剤マイトマイシンCを腫瘍へ到達させる研究を手掛けており、デキストランの体内動態を調べることから卒業研究が始まった。「指向性がない」デキストランを糖修飾して肝臓へ運ばせようとのストーリーだったが、実際には修飾しなくても肝臓へ効率よく運ばれていた。


 90年に修士課程へ進むと、デキストランの指向性を消すためカルボキシメチル基を修飾、その後で改めて単糖のガラクトースやマンノースを付け、さらに抗がん剤ARA-Cを付けて肝がん細胞へ運ばせてみたりした。楽しみながら実験しているうち、修士で研究を終えるのは中途半端かなと思うようになり92年、博士課程へ進んだ。


 そのタイミングで瀨﨑氏は定年退官して橋田氏が後を継ぎ、髙倉氏は助教授となった。生理活性のあるタンパク質が薬になりかけている時期で、タンパク質のサイズと糖修飾の程度と体内動態との関係を明らかにする学位研究に取り組んだ。


 博士課程3年目の94年11月に結婚、95年1月に教室の助手ポストが空いて声がかかり中退して採用された。学位取得は96年11月になった。翌97年、髙倉氏が病態情報薬学分野教授として独立した。


 遺伝子治療に対する熱が世界中で高くなっていた時期で、西川氏もプラスミドのデリバリー研究に取り組み始めた。遺伝子治療に関する注目すべき論文は、『Gene Therapy』誌にほぼ出ており、ウイルスベクターを使わない方法について同誌に頻度高く投稿していた米ピッツバーグ大学医学部のリーフ・ホアン教授の名前を覚えた。橋田氏から留学の許可が出たとき、ぜひともホアン教授の元に行きたいと思った。


 98年、ラスベガスで開かれた学会「コントロールド・リリース・ソサエティ(CRS)」大会の初日朝、たまたまホアン教授を見かけた。初対面だったが、受け入れてほしいと直接頼みこんだら快諾してもらえた。帰国してからメールでやりとりし、デュシェンヌ財団の研究費助成に応募するよう指示された。デュシェンヌ型筋ジストロフィーの筋肉を標的に遺伝子修復を図るテーマが採択され、翌99年から妻を伴い渡米した。


 直前にプラスミドを膜融合能のある高分子との複合体にすると肝臓での遺伝子発現が上がることを発見、渡米してから論文を書き上げて意気揚々と『Gene Therapy』誌に投稿した。その採否を待っていたある日、ホアン教授から出版前の別の論文を渡された。隣のラボのディキシー・リュー教授が同じく『Gene Therapy』誌に投稿したもので、「ハイドロダイナミクス法」開発の報告だった。大容量のプラスミド水溶液を静脈に投与するだけというシンプルな方法なのに、西川氏の開発した方法より遺伝子の発現効率が2ケタ以上高く、大変な衝撃を受けた。すぐに情報を橋田氏へ知らせた。


 研究費助成のテーマだった遺伝子修復については思わしい成果を出せなかったものの、刺激に富む充実した2年間を過ごしてから01年4月、橋田ラボに戻った。1年少し経った02年8月、髙倉ラボへ助教授として移籍した。


 ここでは、今回のテーマであるDNAナノ構造体の研究のほか、細胞を薬のように運ぶDDS開発にも取り組んだ。大学1年時から9人連れで遊んでいた同級生の上杉志成・京大化学研究所教授が、07年の日本DDS学会大会で細胞を操作できる小分子をスクリーニングしたと発表するのを聴き、共同研究を持ち掛けて翌年から始めたものだ。その延長線で小西聡・立命館大学理工学部教授とスフェロイド(細胞塊)の共同研究が始まり、その博士課程学生だった草森浩輔氏が現在は東京理科大薬学部准教授として今回の論文の共同著者になっている。